2000年度

ヒロシマ・ナガサキ表象と公的記憶の変遷

文書情報

instructor 篠原初枝 教授
科目

歴史学

文書タイプ 博士学位申請論文
academic_year 2008年度
言語 Japanese
フォーマット | PDF
サイズ 1.87 MB

概要

I.日本の戦争記憶と表象 ヒロシマ ナガサキを中心として

本稿は、戦後日本のヒロシマ・ナガサキの記憶が、どのように形成され、表現されてきたかを考察する。平和核兵器廃絶というキーワードのもと、様々なメディア(ジャーナリズム文学映画漫画写真)と社会制度(学校教育博物館・資料館公文書館)における記憶の表象を分析する。特に、加害責任の問題や、周辺被爆者(朝鮮人、中国人、連合軍捕虜)への視点を取り入れることの重要性を指摘する。スミソニアン論争以降、歴史認識をめぐる議論が活発化し、教科書検定問題なども含め、国家による記憶の操作と、それに対する抵抗の様相が浮き彫りとなる。

1. 戦後日本の ヒロシマ ナガサキ 記憶の形成と議論

戦後日本におけるヒロシマ・ナガサキの記憶の形成と表現方法をめぐる議論は、公共博物館における戦争に関する歴史展示、特に「戦争に関する歴史」の呈示方法を巡る論争から始まったと記述されている。1994年の井口和起による論文「現代史研究と展示―戦争展示を中心に」では、アジア・太平洋戦争に関する展示の困難さが指摘され、全体像を踏まえた正確な位置づけが求められている。1996年の山辺昌彦の論文「地域に根ざす平和のための戦争展示―戦争展運動を中心に―」は、1990年代に盛んになった「戦争展運動」の役割を分析している。こうした先駆的な研究を基に、近年は平和博物館・戦争資料館の展示に関する研究が体系化されつつある。山根和代(高知大学)は、市民による平和資料館「草の家」の活動を通して、国内外の平和博物館ネットワークの構築に尽力し、体系的な把握を試みている。一方、村上登司文(京都教育大学)は平和博物館と軍事博物館を比較社会学的に考察している。これらの研究は、戦争に関する歴史の展示方法、特にヒロシマ・ナガサキの記憶の扱いについて、多様な視点と方法論を示している。 また、60年代後半から70年代前半にかけて「原爆文学」という領域が形成された過程は、戦後日本のナショナルな空間の同一性構築、脱構築、再構築という実践と深く関わっていたという川上隆行の指摘も興味深い。これは、文学作品におけるヒロシマ・ナガサキの表現が、単なる歴史的記述を超えた、国家アイデンティティ形成に深く関与していたことを示唆している。

2. スミソニアン論争以降の研究動向と歴史認識

スミソニアン論争以降、「ヒロシマ・ナガサキがどのように日本人に記憶されたか」という視点からの研究が盛んになった。油井大三郎、米山リサ、藤原帰一の3名は、それぞれ歴史学、文化人類学、国際政治学の異なる分野から、ヒロシマ・ナガサキの戦後日本における記憶と意味、国内外の認識ギャップを解明しようと試みている。米山リサは、都市空間、景観、祭事、モニュメント、被爆者証言などを分析対象とし、学際的な研究アプローチの先駆けとなった。佐藤丙午は日米安全保障条約と戦後日本の核政策との関連においてこの問題を論じている。これらの研究は、ヒロシマ・ナガサキの記憶が、単なる歴史的事実を超えて、戦後日本のアイデンティティ、外交政策、国際関係などに複雑に関わっていることを明らかにしている。ドイツにおけるホロコーストをめぐる議論も参照され、ベンヤミンの「歴史哲学テーゼ」やアーレントの「忘却の穴」といった概念が、日本の歴史記憶の考察に援用されている。これは、歴史記憶の形成過程における国家の役割、そして記憶の歪み、あるいは意図的な忘却の可能性を深く探るための重要な枠組みを提供していると言える。

3. 国家の記憶形成装置としての役割 学校教育 博物館 公文書館

国家の記憶は、学校教育、博物館・資料館、公文書館といった場で形成されていく。学校教育においては、教科書が重要な役割を果たし、日本の教科書制度(国定、検定、認定、選定、自由選択制)の違いも紹介されている。日本の検定制度では、文部科学省による検定合格が必須であり、無償供与される教科書は、大衆メディアとしての側面を持つ。NHKの世論調査では、戦後世代において「学校の授業」と「学校の教科書」が戦争観に影響を与えたメディアとして上位に挙げられている。しかし、家永教科書裁判や過去の教科書問題を通して、国家による歴史認識の介入が明らかになっており、2002年度の学習指導要領では「国を愛する心情を育てる」ことが明示的に学習目標に含まれた。沖縄集団自決に関する文部科学省の姿勢は、愛国心育成のための都合の悪い記憶の抹消の意図を示す例として挙げられている。公的な博物館・資料館は、国家が認める正史を提示する場として機能するが、国家は都合の良い歴史解釈を強調し、都合の悪い解釈を隠蔽しようとする。韓国の国立博物館の例や、日本の国立歴史民俗博物館、昭和館、しょうけい館の展示の偏りなどが指摘されている。公文書館・古文書館は一次史料に基づく歴史解釈の基礎となるが、公開される文書と隠蔽される文書の選別も国家権力によってコントロールされている。フランスやアメリカなど諸外国の公文書館の公開状況との比較を通して、日本の公文書管理と公開の遅れが問題視されている。

4. 周辺の記憶と表象 ジャーナリズム 文学 芸術 平和運動

国家による記憶の形成とは別に、「周辺の記憶」を掘り起こし、国民に普及させる場として、ジャーナリズム、文学・映画・美術などの芸術文化、私立の博物館・資料館、平和運動などが挙げられる。ジャーナリズムは、検閲のない自由な報道が重要であり、漫画やアニメといった大衆文化も重要な役割を果たすとされる。アメリカのドキュドラマが、歴史的予備知識のない層にも戦争に関する解釈を提供する例として紹介されている。日本の漫画やアニメーションも、小説や絵画以上に大きな影響力を持つと指摘されている。 ヒロシマ・ナガサキの表象は、占領下から検閲をくぐり抜け行われてきた。当初は被害の惨状とアメリカ、日本軍部への怒り、哀悼が中心だったが、ビキニ水爆実験と第五福竜丸事件以降、原水爆問題への関心が高まった。その後、戦後復興に取り残された被爆者や、原爆投下における日本人の加害性の問題が、文学や美術作品で取り上げられるようになった。冷戦時代には、核戦争と人類滅亡の恐怖が作品世界観に反映され、1970年代半ばからは日本人の加害性がより明確に描かれるようになった。

II.広島平和記念資料館と長崎原爆資料館 展示と課題

広島平和記念資料館は、原爆の被害の実相を伝え、核兵器廃絶と世界平和に貢献することを目的とする。展示は原爆投下の惨状、被爆者の体験、戦後の復興、核時代の現状等を網羅する。しかし、来館者数の減少が課題となっている。一方、長崎原爆資料館は、被害の実相に加え、日本の加害責任にも触れ、よりコンパクトで分かりやすい展示を行うことで、若い世代や外国人への理解促進に努めている。安斎育郎館長(立命館大学国際平和ミュージアム)もその役割に期待を寄せる。岡まさはる記念長崎平和資料館は、朝鮮人・中国人被爆者の視点を取り入れた独自の展示で注目される。

1. 広島平和記念資料館 展示内容と課題

広島平和記念資料館は、1949年「原爆参考資料陳列室」として発足し、1955年に現在の本館と東館が開館した。設置目的は「原子爆弾による被害の実相をあらゆる国々の人々に伝え、ヒロシマの心である核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に寄与するため」とされている。本館の展示は、遺品や被爆資料を通して1945年8月6日の広島での出来事を伝えることを中心とし、原爆の威力、被爆者の状況、遺族の悲しみなどが伝えられている。東館では、被爆前からの広島の歴史、平和への取り組みなどが展示されている。資料館は、原爆の物理的・医学的影響を客観的に示すこと、遺族の悲しみを伝えることなどを目指しているが、来館者数の減少が課題となっている。今後の改善策として、展示の動線や手法、内容の大幅な更新、来館者の感情を整理するための空間の設置などが検討されている。長岡省吾氏(地質学者・鉱物学者)が収集した原爆瓦や石が資料館の起源であり、丹下健三氏の設計による建物であることも重要なポイントである。

2. 長崎原爆資料館 展示の特徴と来館者減少への取り組み

長崎原爆資料館は、広島平和記念資料館と比較して歴史が浅いものの、展示内容の改善に努めている。展示は簡潔な導入部から、被害の実相を伝える展示へと直接的に進む構成となっており、文章パネルを最小限に抑え、映像や写真、模型、ジオラマなどを多く活用することで、戦争体験のない若い世代や外国人にも理解しやすい工夫が凝らされている。観覧時間は約1時間とコンパクトで、広島平和記念資料館の平均観覧時間(約45分)と比較しても現実的な時間設定と言える。2005年から開始された「長崎平和学習プログラム」では、小学校5年生と中学校2年生の生徒の来館を奨励し、ハンドブックや事前学習帳も用意されている。しかし、広島と同様に来館者数の減少が大きな課題であり、2005年から開始された「平和案内人」制度では、高齢化する被爆者に代わり、被爆の実相と平和の尊さを後世に伝える人材育成に力を入れている。被爆者と若い世代の案内人をコンビにすることで、修学旅行生への理解促進を図っている。中西賢一館長(2006年就任)のリーダーシップの下、来館者増加に向けた様々な取り組みが行われている。

3. 私立資料館の役割 岡まさはる記念長崎平和資料館と立命館大学国際平和ミュージアム

公立の資料館とは規模が異なるものの、私立の博物館・資料館は独自の認識を打ち出し、国内外の動きに柔軟に対応できる。ヒロシマ・ナガサキに関する私立資料館は、1967年開館の丸木美術館を除いて少なかったが、1995年に開館した岡まさはる記念長崎平和資料館は注目される。同館は、公立資料館における朝鮮人・中国人被爆者の展示が不十分という認識から、日本の侵略と加害の歴史を明らかにすることを目的として開館した。同館は平和教育の場として選ばれるようになり、既存の資料館に刺激を与えている。立命館大学国際平和ミュージアムは総合的な平和博物館だが、日本の侵略から始まる十五年戦争の歴史の中に、都市空襲、沖縄戦、原爆投下を位置づける展示を行い、加害責任を取り入れた新たなバランスを目指している。しかし、被爆地では原爆投下を正当化する恐れがあると反発の声も根強い。立命館の試みは、今後の歴史展示のあり方の新しいベンチマークになる可能性がある。

III.メディアにおけるヒロシマ ナガサキの報道 変化と継続

戦後日本のメディアにおけるヒロシマ・ナガサキ報道は、時代とともに変化してきた。初期は被害の惨状の報道が中心だったが、原水爆実験や第五福竜丸事件などを契機に、核の脅威平和運動への関心が深まった。1960年代以降は、加害責任への認識の高まり、周辺被爆者への注目、そしてチェルノブイリ原発事故以降は放射能汚染の問題が重要なテーマとなった。朝日新聞NHKは、特に重要な役割を果たし、被爆者への取材や反核運動の報道に尽力した。また、漫画アニメといったマスカルチャーも、ヒロシマ・ナガサキの記憶を伝える上で無視できない役割を果たしている。代表作として、『はだしのゲン』や『AKIRA』、『NAGASAKI・1945〜アンゼラスの鐘〜』などが挙げられる。

1. 戦後初期から1960年代前半の報道 被害の記録と原水爆への恐怖

戦後初期のヒロシマ・ナガサキ報道は、原爆投下による被害の惨状の記録と、アメリカや日本軍部への怒りや抗議、そして犠牲者への哀悼が中心であった。占領下では検閲が厳しく、報道内容は限定されていた。日本の復興が進むにつれ、原爆は次第に過去の出来事として扱われるようになったが、ビキニ水爆実験と第五福竜丸被曝事件を契機に、原水爆・核問題への関心が再燃。文学や美術では、戦後社会に適応できない被爆者の姿が描かれ、映画や漫画では原水爆の恐怖が繰り返し表現された。冷戦の進展に伴い、原水爆への恐怖は、将来的な全面核戦争と人類滅亡への恐怖へと変化していき、文学、映画、漫画・アニメ作品の世界観に反映されるようになった。この傾向は冷戦終結(80年代後半)まで続いた。1955年は原爆投下から10年という節目の年であり、平和祈念式典や原水爆禁止世界大会などの国際会議が開催され、原水爆禁止と世界平和への国際的な関心の高さがうかがえる。朝日新聞とNHKは、広島平和祈念式典を第1回から一面トップで報道するなど、重要な役割を果たしてきた。

2. 1960年代後半から1980年代 加害責任への意識の高まりと周辺被爆者の存在

1960年代に入ると、キューバ危機や原水禁運動の分裂などにより、楽観的な空気は失われ、核軍縮への焦燥感が高まった。この時代の報道は、原水禁運動への失望感と不満、核軍縮への不安を反映したものが多い。一方で、十分な救済策を得られないまま苦しむ被爆者の実情を訴える報道も継続された。1970年代半ば頃から、原爆投下における日本人の加害性という新たな視点が、文学や美術作品で先駆的に提示されるようになった。これは、日本のアジア侵略という文脈の中で、ヒロシマ・ナガサキの記憶を捉え直す試みと言える。特に、周辺被爆者(朝鮮人、中国人、連合軍捕虜)の存在が、1960年代後半から徐々に報道されるようになった。深川宗俊の『鎮魂の海峡』、朴秀馥・郭貴勲・辛泳洙共著の『被爆韓国人』、田島治太・井上俊治共著の『煉瓦の壁』といった文学作品は、周辺被爆者の苦しみを明らかにした重要な作品となった。

3. 1990年代以降 核拡散問題と歴史認識の見直し

ソ連崩壊により全面核戦争の危機が回避された90年代は、核拡散問題が新たな報道テーマとなった。旧ソ連からの核兵器の密輸や核技術者の流出が問題視され、ジャーナリズムはこれを「新たな核の危機」として捉え、積極的に報道した。国内では原発トラブルや証拠隠蔽問題が続いた。NHKはチェルノブイリ事故など海外の事故にも対応できる「科学・文化部」を新設し、徹底的な調査報道を行った。スミソニアン論争の影響もあり、原爆投下に関する歴史認識の見直し、特に加害責任への意識が高まった。日米の原爆意識の違いや、世界におけるヒロシマ・ナガサキの伝えられ方への関心も高まり、NHKはこの問題をたびたび取り上げた。 2005年8月には、北朝鮮の核保有問題と60周年を機にした記憶継承という2つの側面からヒロシマ・ナガサキ関連の報道が行われた。北朝鮮の核保有は、日本における核拡散への危機感を高め、6ヶ国協議なども報道された。同時に、被爆体験の継承のあり方が様々な視点から問われた。朝日新聞は「アジアからみた戦後五十年」というテーマでアジア7都市を調査し、原爆投下に対する認識の違いなどを報道している。

IV.学校教育と教科書 国家と記憶

日本の学校教育、特に社会科・歴史教科書におけるヒロシマ・ナガサキの扱いは、国家による記憶の操作の場として機能してきた。教科書検定制度において、加害責任に関する記述の削除・修正が行われるなど、国家による歴史の美化の試みが指摘されてきた。家永教科書裁判や2000年代の教科書問題(「つくる会」の新しい歴史教科書など)は、この問題を象徴する出来事である。近年は、沖縄戦における集団自決の強制をめぐる記述の修正・復活など、国家と国民の記憶をめぐる葛藤が続いている。

1. 教科書における原爆投下の記述 変化と矛盾

日本の教科書におけるヒロシマ・ナガサキ、そして原爆投下の記述は、国家による記憶の操作と、周辺の記憶とのせめぎあいの歴史を反映している。戦後初期の教科書では、原爆投下はミッドウェー海戦やサイパン島の陥落といった戦局の悪化を背景に、突然起こった出来事として扱われ、都市空襲や沖縄戦への言及は少なかった。しかし、70年代以降、都市空襲や沖縄戦の記述が詳細化され、「都市空襲→沖縄戦→広島・長崎→敗戦」という流れの中で原爆投下が位置づけられるようになった。さらに、原爆による死傷者数を都市空襲の死傷者数に含めるなど、原爆投下が無差別都市爆撃の延長線上にあったとする見解も示されるようになった。米国の原爆投下の意図についても、「戦争の早期終結説」に加え、「対ソ原爆外交説」が記述されるようになり、現在では多くの教科書で定着している。1954年発行の東京書籍「新しい社会六年下」では、平和の鐘の記述が引用されており、当時の社会情勢と教科書の記述の変化を対比させることで、記憶の操作と社会変化の関連性が考察できる。

2. 教科書検定と国家による歴史認識の介入 家永教科書裁判と つくる会

教科書における歴史認識をめぐる問題は、家永教科書裁判や、2000年代に話題となった「つくる会」の『新しい歴史教科書』の検定問題など、繰り返し社会問題化している。これらの事例は、国家が教科書の内容に介入し、都合の良い歴史解釈を押し進めようとする試みを明確に示している。2006年の高校日本史教科書検定では、沖縄戦での集団自決に関する記述について、「日本軍の強制があった」とする記述が「誤解を招く」との検定意見で削除・修正が求められたが、大江健三郎の『沖縄ノート』を巡る裁判の判決を踏まえ、「日本軍の強制」に関する記述が復活した。文部科学省は、教科書検定は特定の歴史認識を確定するものではなく、客観的な学問的成果に基づいて欠陥を指摘するものだと主張するものの、この出来事は国民の教科書検定への信頼を損ねたことは否めない。2002年度の学習指導要領で「国を愛する心情を育てる」ことが学習目標に追加されたことは、学校教育を通じた愛国心育成の意図を公然と示すものと言える。

V.文学 芸術におけるヒロシマ ナガサキの表象 多様な視点

文学映画漫画写真などの芸術分野は、ヒロシマ・ナガサキの記憶を多様な視点から表現する場となっている。初期の文学作品は、原爆投下の惨状を記録することに重点が置かれたが、時代とともに、被爆者に対する社会差別、米国の加害責任周辺被爆者の存在などが取り上げられるようになった。丸木美術館の『原爆の図』は、その代表的な例である。写真においては、土門拳や東松照明、そして豊崎博光、森住卓、広河隆一といった写真家たちが、被爆者の苦しみや、世界の核汚染の実相を訴える作品を発表している。

1. 戦後初期の文学 芸術 被害の記録と反戦 鎮魂の表現

戦後初期、特に占領下においては、ヒロシマ・ナガサキの惨状を記録し伝えることが文学・芸術の重要な役割であった。検閲の厳しい時代にもかかわらず、被爆地の作家を中心に、原爆投下の未曽有の悲惨さを正面から描き、怒りや抗議、悲しみや鎮魂の思いを表現した作品が発表された。これらの作品は、単なる事実の記録にとどまらず、強い感情と社会への訴えを込めたものであった。 初期の原爆映画は検閲により公開が制限されたり、内容が変更されたりするなど、表現の自由は大きく制限されていた。しかし、検閲をかいくぐって発表された作品は、多くの人々の心に深く刻まれ、戦争の悲惨さを訴える重要な役割を果たした。手塚治虫の『来るべき世界』(1951年)は、米ソ冷戦構造やストックホルム・アピールといった時代背景を反映し、核戦争や原水爆実験の問題を扱った初期の作品として注目に値する。 この時代の文学・芸術作品は、ヒロシマ・ナガサキの記憶を、個人的な体験と社会への強いメッセージとして表現することに焦点を当てていたと言える。

2. 1960年代以降 社会問題としての被爆者と加害責任への視点

1960年代に入ると、被爆者を取り巻く社会問題が、文学・芸術作品に反映されるようになった。それまでの被害の記録という側面に加え、被爆者に対する社会差別や偏見、被爆者の苦悩が描かれるようになった。また、原爆の加害者であるアメリカ側の内部の傷痕にも目を向けた作品が登場した。これは、単なる被害者としての被爆者像を超え、社会構造的な問題を問う新たな視点を提示するものであった。 丸木位里・俊夫妻の『原爆の図』(1945-1985)は、戦後日本の戦争責任と加害者意識を鋭く問う代表的な作品として挙げられる。 特に後期作品では、日本人の戦争責任や加害者意識が明確に表現され、これまで語られることの少なかった韓国・朝鮮人被爆者などの「周辺被爆者」の存在にも焦点を当てている。これは、1970年代半ば頃から顕在化してきた、原爆投下における日本人の加害性への関心の高まりを反映している。

3. 写真におけるヒロシマ ナガサキの表象 グローバルな視点

写真においても、ヒロシマ・ナガサキの表象は時代とともに変化してきた。占領直後には、原爆被害の惨状を写した写真が大きな衝撃を与えたが、その後は過去の出来事として記憶の片隅に追いやられていった。1950年代末から60年代にかけては、土門拳や東松照明といった写真家が、被爆者たちの現在進行形の苦しみを訴える作品を発表し、国民の無関心を明らかにした。1980年代以降は、隣国との歴史認識の相違が顕在化する中で、伊藤孝司や山本將文といった写真家が、韓国人・朝鮮人被爆者への無関心を告発する作品を発表した。冷戦終結後は、旧ソ連内の核施設や核実験場周辺の核汚染状況が明らかになり、「グローバルヒバクシャ」をテーマとした写真家たちが活躍するようになった。豊崎博光、森住卓、広河隆一らは、世界各地の核実験場や核関連施設の被曝状況を取材し、社会に告発している。彼らの作品は、放射能や放射線の目に見えない脅威、そして被爆者の見えない苦しみを伝える上で重要な役割を果たしている。

4. 漫画 アニメーションにおけるヒロシマ ナガサキ 大衆文化の影響

漫画・アニメーションにおいても、ヒロシマ・ナガサキは重要なテーマとして扱われてきた。『はだしのゲン』は、被爆者の苦しみと社会問題をリアルに描いた作品として知られ、高い人気を博した。この作品は、被爆者の体験に基づいた自伝的な物語であり、被爆者に対する差別や偏見、周辺被爆者の存在、原爆症による死など、多くの社会問題が描かれている。また、『AKIRA』や『NAGASAKI・1945〜アンゼラスの鐘〜』といった作品は、核兵器の脅威や戦争の悲惨さを、異なる表現方法で訴えている。これらの作品は、特に若い世代に強い影響を与え、ヒロシマ・ナガサキの記憶を継承していく上で重要な役割を担っていると言える。漫画やアニメーションは、これまではサブカルチャーと見なされることもあったが、今日の日本文化における影響力の大きさを考慮すれば、積極的に注目していく必要がある。 これらの作品は、文学や映画とは異なる表現方法を用いて、ヒロシマ・ナガサキの記憶を現代に伝えている。