
ベークの解釈学と歴史主義
文書情報
著者 | 安酸敏眞 |
専攻 | 哲学 |
文書タイプ | 論文 |
言語 | Japanese |
フォーマット | |
サイズ | 565.45 KB |
概要
I.ベークの解釈学と歴史主義の関連性 古典文献学からのアプローチ
本論文は、アウグスト・ベーク(August Boeckh)の古典文献学における解釈学(Hermeneutics)と歴史主義(Historismus)の密接な関係性を明らかにすることを目的とする。特に、ベークの解釈学が、シュライアーマッハー(Schleiermacher)の解釈学とは異なり、歴史的文脈を重視した独自の体系を構築している点に焦点を当てる。ベークの解釈学は、歴史的解釈を重要な要素とし、言語的記念物(Sprachdenkmal)の理解において、文法的解釈だけでなく、歴史的状況や現実的事態への関係を考慮する歴史的意識を強調している。 この点において、ベークはヨハン・グスタフ・ドロイゼン(Johann Gustav Droysen)やヤーコプ・ブルクハルト(Jacob Burckhardt)といった歴史主義の主要な思想家たちと深い繋がりを持つ。
1. 歴史主義の現状と研究の必要性
日本においては歴史主義(Historismus)に関する議論は衰退しているが、ドイツでは近年再評価が進んでいる。この再評価の背景には、歴史主義が人文科学・社会科学の中心的な役割を果たしていたこと、そして歴史主義が提起した根本的な問題が未解決のまま現代社会の主要な問題として残っていることがある。本論文は、この歴史主義の再検証を通して、解釈学の成立と歴史主義との深い繋がりを探求する。特に、アウグスト・ベーク(August Boeckh)の古典文献学における解釈学と歴史主義の関連性に注目する。 ベークは、シュライアーマッハーとは異なるアプローチで歴史主義と解釈学を結びつけており、その点に注目することで、歴史主義の新たな理解が得られると期待される。
2. ドロイゼンとブルクハルト そしてベークへの視点転換
ヤーコプ・ブルクハルトとヨハン・グスタフ・ドロイゼンは、西洋的思惟の歴史化という現象を最初に洞察したとされる。しかし、この二人から出発するだけでは、シュライアーマッハーの解釈学と歴史主義の結びつきを十分に説明できない。そこで本論文では、ドロイゼンとブルクハルトの共通の師であるアウグスト・ベーク(August Boeckh)の古典文献学に注目する。ベークの古典文献学における解釈学は、歴史主義と密接に結びついており、その繋がりを解明することで、解釈学と歴史主義の関係をより深く理解できると考えられる。ドロイゼン自身の「歴史的方法の本質は探究しつつ理解することにある」という考え方も、ベークの影響を反映していると言えるだろう。
3. ベークの古典文献学と解釈学の体系 理解 Verstehen の探求
ベークの『文献学的諸学問のエンチクロペディーならびに方法論』は、彼の解釈学を理解する上で重要な文献である。この著作では、文献学が「理解の行為」と「理解の諸契機」を学問的に探究するものであり、解釈学(Hermeneutik)をその基礎としているとされている。ベークの文献学は、理解の機能と諸契機(文法的解釈、個人的解釈、歴史的解釈、種類的解釈)を分析する「形式的な理論」と、理解されたもの(das Verstandene)を考察する「実質的な部分」から構成される。ベークは、理解においては客観的側面と主観的側面の両方を考慮する必要があることを強調し、現実の歴史的諸関係を常に考慮に入れるべきだと主張している。このアプローチは、歴史主義(Historismus)的な視点を取り入れていると言える。
4. ベークの解釈学における 歴史的解釈 の重要性
ベークの解釈学において「歴史的解釈」は重要な位置を占める。言語的記念物(Sprachdenkmal)を理解するには、文法的解釈だけでは不十分であり、歴史的状況や現実的事態への関係を理解する必要があるとベークは主張する。タキトゥスの『年代記』やホラティウスの作品を例に、歴史的コンテクストの重要性を説いている。ベークの『アテナイ人の国家財政』は、この歴史的解釈を具体的に示す例として挙げられる。この著作は、大量の資料に基づきアテナイ国家の財政機構を実証的に明らかにしたものであり、古典文献学を歴史科学へと変容させたパイオニア的研究として高く評価されている。このことは、ベークの文献学が歴史主義(Historismus)と深く関わっていることを示している。
II.ベークの解釈学の体系 四種類の解釈
ベークの解釈学は、『文献学的諸学問のエンチクロペディーならびに方法論』(Encyklopädie und Methodologie der philologischen Wissenschaften) に示されているように、文法的解釈、個人的解釈、歴史的解釈、種類的解釈という四種類の解釈から構成される。これらの解釈は相互に関連しあい、互いに補完しながら言語的記念物の完全な理解を目指す。個人的解釈では、著者の主観性を考慮し、歴史的解釈では、歴史的状況と現実的事態への関係を分析する。種類的解釈は、言語的記念物のジャンル(Gattung)を考慮に入れた解釈方法である。これらの解釈を通して、ベークは**理解(Verstehen)**という行為の複雑さと多面性を示している。
1. ベーク解釈学の構成要素 四種類の解釈
アウグスト・ベークの解釈学は、彼の主著『文献学的諸学問のエンチクロペディーならびに方法論』において体系的に示されている。この体系の中核をなすのが、文法的解釈、個人的解釈、歴史的解釈、種類的解釈という四種類の解釈である。文法的解釈は、言語の客観的な側面、つまり文法規則に基づいた解釈である。一方、個人的解釈は、著者の主観性や個性といった内的要因を考慮した解釈である。これらの解釈は、単独で用いられるのではなく、相互に関連しあいながら行われる。 ベークは、あらゆる報告や伝承の意味は現実の歴史的諸関係によって制約されていると述べ、この点を考慮した解釈こそが重要であると強調する。この考え方は、彼の解釈学における歴史的コンテクストの重視を示している。
2. 解釈の実際と相互作用 循環と漸進的アプローチ
ベークによれば、解釈の実際的な区分は解釈学的活動の本質から導き出される。理解と解釈において本質的なのは、報告・伝承されたものの意味が、言語の客観的意義や現実の状況、そしてジャンル(Gattung)によって制約され、規定される点である。 彼は、文法的解釈と個人的解釈、歴史的解釈と種類的解釈がそれぞれ結びつくことを指摘している。これらの異なる種類の解釈は、実際の様々な知識を前提としているが、それらの知識は資料の解釈を通して初めて獲得されるという循環構造を持つ。ベークは、この循環を解決する方法として、解釈実践の鍛錬を積み重ね、段階的に問題解決に近づく「無限の近似」というアプローチを示唆している。
3. 歴史的解釈 の特質と範囲 歴史的コンテクストの重要性
ベークの解釈学において特に重要なのが「歴史的解釈」である。これは、言語的記念物の客観的意味を理解するために、歴史的状況についての知識が不可欠であるという考え方に基づいている。単に言葉そのものの意味を解明するだけでなく、言葉が用いられた歴史的状況、語り手や書き手の意図、そして現実的事態との関係を考慮することが必要となる。 ベークは、タキトゥスの『年代記』やホラティウスの作品などを例に挙げ、歴史的コンテクストを理解しない限り、真の意味を把握することは不可能であると主張する。この「歴史的解釈」は、シュライアーマッハーの「心理学的解釈」とは明確に区別されるべきものである。
4. 解釈学における主観性と客観性の統合 完全な理解への道
ベークの解釈学は、客観的な文法的解釈と主観的な個人的解釈を統合しようとする試みと言える。語り手や書き手は、言語を特有な仕方で用い、個人的な付加物を加えるため、その主観性を考慮に入れなければ真の理解は得られない。しかし、同時に、言葉の客観的な意味や歴史的コンテクストも無視できない。ベークは、これらの異なる側面を統合することで、より完全な理解に到達できると考えている。 完全な理解は稀有なケースとして「有為なる感情」を持つ「真正の解釈学的芸術家」にのみ達成される可能性があると示唆しているが、それは直観的な理解であり、論理的な説明を超えた領域に属する。
III.ベークとシュライアーマッハーの解釈学の比較 相違点と共通点
ベークとシュライアーマッハーの解釈学の比較を通して、両者の相違と共通点が明らかになる。シュライアーマッハーの解釈学が主に文法的解釈と心理学的解釈に焦点を当てているのに対し、ベークの解釈学は、歴史的解釈を重視し、歴史主義(Historismus)との強い関連性を示す。しかしながら、両者ともに**理解(Verstehen)**を重視しており、言語的記念物の意味を解明するためのアプローチにおいて共通項も見られる。 ベークはシュライアーマッハーの解釈学における欠陥を修正する意図をもって、独自の解釈学体系を構築したと言える。
1. シュライアーマッハー解釈学との比較 出発点の差異
本稿では、ベークの解釈学をシュライアーマッハーの解釈学と比較することで、両者の相違点と共通点を明らかにする。シュライアーマッハーは、解釈学を「文法的解釈」と「技術的解釈」の二区分から出発した。一方、ベークは、ドロイゼンやブルクハルトの共通の師として、歴史主義(Historismus)と深く関わる解釈学を構築した。 この違いは、解釈学における歴史的コンテクストの重視という点に現れる。シュライアーマッハーの解釈学では、歴史的側面はそれほど強調されていないが、ベークの解釈学では、歴史的状況や現実的事態への関係が解釈において重要な役割を果たす。
2. ベーク解釈学における 個人的解釈 と 種類的解釈
ベークの解釈学における「個人的解釈」は、シュライアーマッハーの「心理学的解釈」とほぼ対応するが、ベークはシュライアーマッハーの解釈学が持つ欠陥を修正しようとする意図をもってこの概念を再定義している。 ベークは、話し手の個性を考慮に入れなければ真の理解に到達できないと指摘し、一方シュライアーマッハーのように「心理学的解釈」という用語を用いることを避けている。同様に、「種類的解釈」はシュライアーマッハーの「技術的解釈」に対応するが、ベークは、言語的記念物のジャンル(Gattung)という側面から解釈することを重視し、主観的側面に重きを置いている。
3. 歴史的解釈の相違 ベークにおける歴史主義的基調
ベークとシュライアーマッハーの解釈学における最も大きな違いは、「歴史的解釈」へのアプローチにある。シュライアーマッハーにおいては、歴史的解釈はそれほど明確に位置づけられていない。しかし、ベークの解釈学では、「歴史的解釈」は中心的な位置を占め、言語的記念物の理解において、歴史的状況や現実的事態への関係を考慮することが不可欠であるとされている。ベークは、言語的記念物の意義は言葉そのものだけでなく、現実的事態との関係、歴史的状況といった様々な要素によって規定されると主張する。 この歴史主義(Historismus)的な視点は、シュライアーマッハーの解釈学には見られない重要な特徴である。
4. 共通点 理解 Verstehen への志向と解釈の循環
ベークとシュライアーマッハーの解釈学は、異なる点もある一方で、「理解(Verstehen)」を重視するという共通点を持つ。両者とも、言語的記念物の意味を解明し、真の理解に到達することを目指している。 また、解釈活動自体が循環的な構造を持つという点も共通している。ベークは、文法や辞書といった既存の知識が解釈活動を通して精緻化され、それが再び解釈活動に役立てられるという循環構造を認めている。シュライアーマッハーも、同様の循環構造を解釈学に内在するものとして認識していたと考えられる。
IV.ベークの古典文献学と歴史科学 アテナイ人の国家財政
ベークの代表作である『アテナイ人の国家財政』(Die Staatshaushaltung der Athener) は、彼の古典文献学が歴史科学(歴史学)へと発展していく過程を示す重要な事例である。この著作において、ベークは膨大な資料に基づいてアテナイの財政機構を分析し、歴史的・実証的な研究方法を確立した。この研究は、古典文献学(Classical Philology)と歴史科学(歴史学)の融合を象徴し、ベークの歴史主義的なアプローチを明確に示している。
1. アテナイ人の国家財政 古典文献学と歴史科学の融合
アウグスト・ベークの『アテナイ人の国家財政』(Die Staatshaushaltung der Athener)は、彼の古典文献学における歴史主義(Historismus)的アプローチを明確に示す重要な著作である。この研究は、貴金属、土地、鉱山、家屋、奴隷、家畜、衣服、食物などの価格や税金、国民の収入といった膨大な資料に基づいて、アテナイ国家の財政機構を実証的に明らかにしようとしたものである。 それまでの古典文献学研究とは異なり、歴史的・実証的な方法論を採用しており、古典文献学を歴史科学へと転換させたパイオニア的な研究として高く評価されている。ベーク自身も、この研究を通して古典文献学の枠を超えた歴史科学への貢献を強く意識していたことが、ゴットフリート・ヘルマンとの論争においても示されている。
2. ベークの文献学 歴史的コンテクストの重視
ベークは、文献学が単に言語的作品や文化財を解釈するにとどまらず、それらが成立した歴史的コンテクストを考慮することが不可欠だと主張した。 彼の文献学は、言語的作品だけでなく、非言語的な事実や表象をも含む、古代社会の全生活と全働きを歴史的・学問的に認識することを目指している。ベークは、文献学者が、家族関係や国家関係、宗教、芸術、知識といった様々な側面を包括的に考察する必要があると述べている。 この考え方は、彼の解釈学における「現実的状況との諸関係」(Beziehungen auf reale Verhältnisse)という概念にも反映されており、歴史主義(Historismus)的な視点が強く反映されている。
3. 文献学における解釈学と批判の位置づけ 実質と形式
ベークは、文献学において解釈学と批判を、単なる形式的な部分としてではなく、実質的な部分と密接に関連した要素として位置づけている。 古代民族の活動の表現が、大部分は言語的な記念物(Sprachdenkmal)として伝承されている以上、それらを歴史的コンテクストを踏まえて解釈し理解することは不可欠である。 解釈学と批判は、言語的な記念物を通して、事実や思考を含む古代社会の全領域を叙述するために不可欠な手段であり、文献学の重要な構成要素となっている。この点において、ベークの文献学は、言語の理解にとどまらず、歴史的現実を深く探究する歴史科学(歴史学)的な側面を強く持っていると言える。
V.結論 ベーク解釈学における歴史主義の基調
以上の考察から、ベークの解釈学は、シュライアーマッハーとは異なり、歴史主義(Historismus)の基調を強く持つことが明らかになった。彼の古典文献学は、単なる言語研究にとどまらず、歴史的コンテクストを考慮した歴史的理解を目指しており、非言語的な事実や表象にも開かれている。ベークの解釈学は、現代の主要な問題とも深く繋がる未解決の根本的な問題への新たなアプローチを提供するものである。
1. ベークの古典文献学における歴史主義的視点
本論文では、アウグスト・ベーク(August Boeckh)の『アテナイ人の国家財政』(Die Staatshaushaltung der Athener)を分析することで、彼の古典文献学における歴史主義(Historismus)的基調を明らかにする。 この著作は、膨大な資料に基づいてアテナイの財政機構を実証的に解明したものであり、従来の古典文献学研究とは異なり、歴史的・実証的なアプローチを採用している点が重要である。 ベークは、文献学が、特定の民族の全生活と全働きを歴史的・学問的に認識するものであると明確に述べている。これは、単なる言語学的研究ではなく、歴史的コンテクストを重視した歴史科学(歴史学)的な研究であることを示している。
2. 歴史科学への貢献 古典文献学の変容
『アテナイ人の国家財政』は、古典文献学を歴史科学へと変容させたパイオニア的研究であると評価されている。この著作においてベークは、言語的記念物(Sprachdenkmal)だけでなく、非言語的な事実や表象をも含む幅広い資料を分析対象としており、その方法論は、歴史的コンテクストを重視した歴史主義(Historismus)的なアプローチに基づいている。 ベークは、家族関係や国家関係、宗教、芸術、知識など、古代社会のあらゆる側面を文献学の研究対象として包含することを主張している。これは、彼の文献学が歴史科学と深く結びついていることを示す重要な要素である。
3. ベークの自覚と歴史科学への展望 ゴットフリート ヘルマンとの論争
ベーク自身、自分の研究が古典文献学を歴史科学へと変容させているという自覚を持っていたことが、ゴットフリート・ヘルマンとの論争において明らかになる。 ベークは、文献学が特定の民族の活動の総体を歴史的・学問的に認識するものであると主張し、家族関係や国家関係といった実際的な側面から、宗教、芸術、知識といった理論的な側面まで、あらゆるものを考察対象とすることを強調している。 この主張は、彼の文献学が、言語的な記念物にとどまらず、事実と思考の全領域を包含する広範な歴史科学的な研究を目指していることを示している。そして、解釈学と批判は、そうした実質的な部分に貢献する要素として位置付けられる。