
マカエンセのアイデンティティ変容
文書情報
著者 | 内藤 理佳 |
学校 | 放送大学大学院 |
専攻 | 流通情報学部 |
文書タイプ | 聞き取り調査およびアンケート全記録 |
言語 | Japanese |
フォーマット | |
サイズ | 1.10 MB |
概要
I.マカオにおけるマカエンセのエスニシティ変容 中国返還後のアイデンティティ
本論文は、1999年の中国返還後におけるマカオの【マカエンセ(Macaenses)】コミュニティのエスニシティ変容を、マカオ在住者16名への聞き取り調査に基づき分析したものです。400年以上にわたりポルトガル統治下で独自の文化を築いてきたマカエンセは、【ポルトガル】と【中国】の文化が混ざり合った独特のアイデンティティを持つ【エスニック・マイノリティ】です。彼らはポルトガル語を母語とし、ポルトガル文化と深い精神的繋がり(【ポルトガリダーデ(portugalidade)】)を持つ一方で、マカオ社会における多数派である中国人との交流も深く、中間層として安定した地位を築いてきました。しかし、中国返還はマカオ社会を急速に【中国化】させ、マカエンセのアイデンティティにも大きな影響を与えています。この変化の中で、マカエンセはどのように【アイデンティティ】を維持し、未来を築いていくのかが問われています。調査では、マカエンセ協会(Associação dos Macaenses de Macau)会長などの著名人へのインタビューを通じて、彼らの視点から現状と将来展望を探っています。【マカオ】、【中国】、【ポルトガル】の三者の関係性、そして【パトゥア語】の保存など、複雑な文化的・政治的状況が浮き彫りになります。
1. マカエンセの定義と歴史的背景
マカオ在住のマカエンセ16名への聞き取り調査を通して、彼らのエスニシティ変容を分析する本研究は、まずマカエンセの定義から考察を進めます。マカエンセとは、ポルトガル人と中国人をはじめとするアジア諸地域出身の女性との混血によって生まれた集団であり、その出自は多様性に富んでいます。インド人やマレー人、さらには日本人の血を引く者もいるとされ、一つの籠に入った様々な種類の果物に例えられています。16世紀半ば、ポルトガル人がマカオに到来し、事実上の植民地支配を開始。当初は男性がほとんどであったポルトガル人は、現地女性との婚姻関係を結び、家族を形成していきました。19世紀半ばには既にマカエンセ・コミュニティが形成されており、ポルトガル語を母語とする彼らは、中国語(広東語)を話す中国系住民との間で言語の壁に直面しながらも、ポルトガル人支配層との良好な関係を保ち、社会経済的に恵まれた地位を築いてきました。 マカエンセの正確な人口は不明ですが、世界規模で2万人強と推定され、マカオ在住者(約8000人)より海外居住者が多数を占めるディアスポラが形成されている点が特徴的です。研究対象をマカオ在住のマカエンセに限定した理由も、このディアスポラの広がりとフィールドワークの制約から説明されています。
2. ポルトガリダーデとマカエンセのアイデンティティ
マカエンセのアイデンティティを理解する上で重要な概念として「ポルトガリダーデ(portugalidade)」が挙げられます。これはポルトガルとの深い精神的な絆・繋がりを表す言葉で、個々人のエスニック・アイデンティティの根幹をなす精神的な表徴と説明されています。ポルトガル風の文化的価値観を内面にもつことや、ポルトガルと強く結びついた精神を持つことを意味するなど、個人によって解釈が様々であり、習慣的・個人的な情感的評価であるため、客観的な尺度で計測することは困難です。地理的に遠く離れたマカオとポルトガル、そして両者の文化的な隔絶にもかかわらず、マカエンセにとってポルトガルは故郷ではなく、独自のアイデンティティを形成する上で重要な要素となっています。 イタリア人やイギリス人がポルトガルを外国と感じるのと同じように、マカエンセもポルトガルに対して特別な感情を抱くものの、それは故郷への郷愁とは異なる感情であると指摘されています。ポルトガリダーデ、もしくはlusitanidade(ルジタニダーデ)という考え方は、人生や生き方の根幹となる価値観としてマカエンセの文化的なかかわりを象徴していると言えるでしょう。
3. 中国返還の影響とマカエンセ社会の変化
1999年の中国返還は、マカオ社会に大きな変化をもたらしました。中国返還後50年間は従来の社会体制が維持されると法律で明文化されていましたが、実際には急速な中国化が進み、ポルトガルの影響力は減少しています。この激動の転換期において、マカエンセ・コミュニティのエスニシティにも大きな変容が起きている可能性が示唆されています。具体的には、公務員への就職が困難になったり、中国名を持たないマカエンセへの雇用差別などが発生していることが指摘されており、特に女性は男性に比べて雇用機会が少ないという差別も存在するようです。 マカエンセの多くは中国返還をある程度予測していたものの、それでもポルトガル語だけでなく中国語、さらには英語の習得が必要となるなど、返還前より困難な状況に置かれた側面も存在します。中国政府は、ポルトガル語圏諸国との交渉におけるマカオの役割を重視している一方、マカエンセの将来は必ずしも明るいとは限らないという意見もインタビューの中で見られます。マカオ経済のカジノ依存が将来の不安定要因として挙げられており、マカエンセのアイデンティティと社会的地位をめぐる複雑な状況が示されています。
4. マカエンセの未来展望と課題
インタビューを通して、マカエンセの未来への様々な展望と課題が明らかになっています。一部のマカエンセは、中国政府がポルトガル語圏諸国との交渉においてマカオを重視している点を踏まえ、マカエンセが重要な役割を担う可能性に期待感を示しています。中国に属しながらも中国人のコミュニティとは異なる少数派としての存在が、マカオの特色となっているという認識も示されています。しかし、マカオ経済のカジノ依存による不安定性や、中国名を持たないマカエンセへの雇用差別、女性への雇用差別といった課題も依然として存在しています。 マカエンセのアイデンティティの維持、パトゥア語の保存、そして新たな世代への文化継承といった課題に取り組む必要性が強調され、マカエンセ・コミュニティの結束と適応能力が、将来の存続に不可欠であることが示唆されています。 中国政府の政策、マカオ経済の動向、そしてマカエンセ自身の努力が複雑に絡み合い、彼らの未来を左右することになります。
II.マカエンセのアイデンティティ 多様な出自と ポルトガリダーデ
マカエンセのアイデンティティは、多様な出自を持つ点に特徴があります。ポルトガル人男性と中国人を含むアジア諸地域出身の女性との混血によって形成され、インド人やマレー人、さらには日本人の血を引く者も存在します。彼らのアイデンティティの根幹をなすのは「ポルトガリダーデ」であり、これはポルトガル文化への深い精神的繋がりを表す言葉です。しかし、ポルトガルを「故郷」と感じるのではなく、独自の【マカエンセ文化】を形成しています。この【ポルトガリダーデ】は、個々人によって解釈が異なり、客観的な尺度で測ることは困難です。 世界規模では2万人強と推定され、マカオ在住者約8000人を含む【ディアスポラ】が世界各地に広がっています。
1. マカエンセの多様な出自
マカエンセのアイデンティティは、その多様な出自に特徴があります。 ポルトガル人が大航海時代、アフリカ、ゴア、マラッカを経由してマカオに到着する過程で、各地域で現地女性との婚姻関係を結び、その子孫がマカエンセのルーツとなっています。マカオにおいても、ポルトガル人男性と中国人、インド人、マレー人女性との婚姻が繰り返され、複雑な民族的背景が形成されました。 更に、江戸時代の日本からの渡来人を祖先に持つマカエンセも存在するなど、その多様性は非常に複雑です。本文では、マカエンセを「一つの籠に入っている様々な種類のフルーツ」に例え、その多様な出自と歴史を強調しています。この複雑な出自が、マカエンセのアイデンティティを理解する上で非常に重要な要素となります。明確な定義が困難な点も、この多様な出自と歴史的経緯に起因しています。世界規模で2万人強と推定されるマカエンセですが、その多くがマカオ国外に居住するディアスポラであり、マカオ在住者は約8000人と推定されています。
2. ポルトガリダーデ マカエンセの精神的アイデンティティ
マカエンセのアイデンティティを語る上で欠かせないのが、「ポルトガリダーデ(portugalidade)」という概念です。これはポルトガル語で、「ポルトガルとの深い精神的な絆・繋がり」を意味し、マカエンセのアイデンティティの根幹をなす精神的表徴として捉えられています。しかし、これは単なるポルトガルへの郷愁ではなく、ポルトガル文化との深い精神的な結びつき、ポルトガル風の文化的価値観を内面にもつことなどを含む、より複雑な概念です。 「ポルトガリダーデ」は個々人によって異なる意味を持つ、きわめて習慣的・個人的な「情感的評価」であり、客観的な尺度で計測することは困難です。地理的に離れたマカオとポルトガル、そして両者の文化的な隔絶を考慮すると、マカエンセにとってポルトガルは本来の意味での「故郷」とは呼べないものの、彼らのアイデンティティを形成する上で決定的な役割を担っています。この「ポルトガル的なるもの」への強い精神的繋がりこそが、マカエンセのアイデンティティの核心であり、研究においても重要な分析対象となっています。
3. マカエンセの人口とコミュニティ
マカエンセの正確な人口を把握することは困難ですが、世界規模で2万人強と推定されています。その内訳は、マカオ在住者(約8000人)よりも、ポルトガル、ブラジル、カナダ、アメリカ合衆国、オーストラリア、香港など、マカオ以外の地域に居住するディアスポラの方がはるかに多いと推測されています。このディアスポラの広がりは、マカエンセ・コミュニティの現状調査と将来展望を考察する上で、重要な要素となります。 本研究では、フィールドワークの制約から、研究対象をマカオ在住のマカエンセに限定している点が明記されています。しかし、マカエンセのアイデンティティを包括的に理解するためには、ディアスポラの状況も考慮する必要があることを示唆しています。マカオ以外に、香港や上海にも大きなマカエンセ・コミュニティが存在し、それぞれの都市の発展に貢献してきた歴史も背景にあります。
III.中国返還後の変化 中国化とマカエンセの対応
中国返還後、マカオ社会は急速な中国化が進み、ポルトガルの影響力は衰えつつあります。マカエンセもこの変化に直面しており、公務員職への就職が難しくなるなど、【経済的】、【社会的な】困難も生じています。しかし、中国政府はポルトガル語圏諸国との交渉の架け橋としてマカオを重視しており、マカエンセはその役割を担う可能性を秘めています。【マカエンセ協会(APIM)】などの団体は、マカエンセの文化とアイデンティティの維持に努めています。パトゥア語の復興やポルトガル文化の保存活動などが行われていますが、若い世代におけるポルトガル語能力の低下も懸念されています。
1. 中国返還とマカオ社会の急速な中国化
1999年の中国返還後、マカオ社会は急速な中国化の道を辿り、ポルトガルの影響力は著しく低下しています。法律上は中国返還後50年間、従来の社会体制の継続が明文化されていましたが、現実には10年も経たずに社会全体が変化していきました。この急速な変化は、マカエンセ・コミュニティのエスニシティにも大きな影響を与えていると考えられます。 マカオ社会の上層部がポルトガル人から中国人へと変わり、公用語が中国語へと移行していく中で(法律上はポルトガル語も公用語)、マカエンセは広東語に加え、北京語、そして国際的なビジネスシーンでの必要性から英語の習得にも迫られています。ポルトガル政府による引き継ぎの不備も、返還後数年間の行政上の混乱を招いた一因として指摘されています。この中国化の流れは、マカエンセのアイデンティティや生活様式に、これまでとは異なる新たな課題を突きつけています。
2. マカエンセへの影響 経済的 社会的な困難
中国返還はマカエンセの生活とアイデンティティに様々な変化をもたらしました。特に経済的・社会的な面では、困難が増大しています。多くのマカエンセは将来への不安から、返還前に早期退職して国外へ移住したり、公務員を退職して退職金を受給する道を選びました。 しかし、マカオに残留せざるを得ないマカエンセ、特に公務員は、中国語(北京語)の習得や、外国企業とのビジネスのため英語の習得など、新たな言語習得の必要性や、中国名を持たないことによる雇用差別といった困難に直面しています。女性は男性に比べて雇用機会がさらに少ないという現状も指摘されています。 こうした状況は、マカエンセの社会経済的な地位の低下、そしてアイデンティティの希薄化というリスクを孕んでいます。 この変化は、マカエンセがこれまで享受してきた「特権」の消失を意味し、彼らが今後どのように社会の中で生き残っていくのかという課題を浮き彫りにしています。
3. マカエンセの対応 文化の継承と新たな役割
中国返還という激変の中でも、マカエンセ・コミュニティは、独自の文化とアイデンティティを維持・継承しようとする様々な努力を続けています。パトゥア語の復興を目指す演劇活動などが、中国政府によって温かく見守られている事例も紹介されています。これは、中国政府がマカオ文化を重視する姿勢の表れと捉えることができます。 一方で、マカエンセ協会(APIM)などの組織は、マカエンセの文化とアイデンティティの維持に重要な役割を果たしており、ポルトガル文化の保存活動も活発です。 また、中国政府がポルトガル語圏諸国との交渉においてマカオを重視していることから、マカエンセは、中国とポルトガル語圏諸国との架け橋としての役割を担う可能性も秘めていると示唆されています。ポルトガル語と中国語の両方に堪能な人材の需要が高まっている現状も、マカエンセにとって新たなチャンスとなり得ると考えられます。
IV.マカエンセの未来 挑戦と可能性
マカオの未来は、カジノ経済への依存など、不安定な要素も抱えています。しかし、マカエンセはこれまで幾多の困難を乗り越えてきた歴史を持ち、高い適応能力と多言語能力を有しています。中国政府によるマカオの【ポルトガル語圏諸国】との貿易促進政策は、マカエンセにとって新たな機会をもたらす可能性があります。特に【ポルトガル語】と【中国語】の両方に堪能な人材は需要が高まっており、若い世代のマカエンセが活躍できる場が広がるかもしれません。 マカエンセは、独自の文化とアイデンティティを維持しつつ、中国社会に適応していくことで、未来を築いていこうとしています。ただし、【中国国籍】取得を巡る議論や、女性への雇用差別など、解決すべき課題も残されています。