
中小企業金融円滑化法:経済効果と課題
文書情報
著者 | 増田辰良 |
専攻 | 経済学 |
文書タイプ | 研究ノート |
言語 | Japanese |
フォーマット | |
サイズ | 1.39 MB |
概要
I.中小企業金融円滑化法の概要と目的
本稿は、2008年のリーマンショック後の景気低迷を受け、中小企業の資金繰り悪化を防ぐために制定された中小企業金融円滑化法(以下、円滑化法)の経済効果を分析します。この法の主な目的は、中小企業者の融資条件変更を促進し、債務不履行を防ぎ、雇用と生活の安定を図ることです。円滑化法は、金融機関に対し、中小企業者の返済猶予や返済期限延長などの柔軟な対応を「努力義務」として求めています。しかし、モラルハザードや逆選択の問題も孕んでいました。特に、信用保証協会による全額保証が、金融機関のリスク軽減につながり、不良債権問題の悪化を招いた可能性も指摘されています。
1. 中小企業金融円滑化法の制定背景と目的
2008年秋のリーマンショック後の金融危機により、日本経済は深刻な景気低迷に陥り、中小企業の資金繰りが悪化、倒産増加の懸念が高まりました。この状況を踏まえ、中小企業等に対する金融の円滑化を図るため、中小企業金融円滑化法が制定されました。この法律の直接的な目的は、中小企業や個人の住宅ローン借手からの申し込みがあった場合、金融機関が業務の健全性を維持しつつ、貸付条件の変更等にできる限り応じるよう努め、金融を円滑化することです。ひいては、借手側の雇用と生活の安定を目指しています。 法制定の背景には、市場経済における情報の非対称性という市場の失敗への対応という側面もあります。つまり、中小企業と金融機関の間の情報格差を解消することで、より効率的な資源配分を目指したのです。 しかしながら、この法律は、設計時および運用時の両面において、効率的な資源配分を阻害する可能性も秘めているとされています。具体的には、情報の非対称性から生じるモラルハザードや逆選択の問題が潜在的に存在する点です。
2. 円滑化法の主要条項と金融機関への義務
円滑化法は、金融機関に対し、中小企業者への信用供与において、当該中小企業者の特性や事業状況を考慮し、柔軟な対応を「努力義務」として課しています。具体的には、中小企業者から債務負担軽減の申し込みがあった場合、事業の改善または再生の可能性を勘案し、返済猶予、返済期限の延長、金利の減免、債務放棄など、様々な措置をとるよう努めることを求めています。 さらに、金融機関は他の金融機関、政府系金融機関、信用保証協会などとも連携して対応にあたるよう規定されています。金融庁は、この法の目的達成を容易にするため、不良債権基準を緩和しました。例えば、最長10年で経営再建が可能と判断されれば、融資条件を変更しても直ちに不良債権として分類する必要がないなど、金融機関への負担軽減策も講じられています。 これらの条項は、中小企業が金融機関に対してより容易に要望を伝え、経営再建の機会を得られるように設計されていますが、同時に、金融機関の行動に影響を与え、モラルハザードや逆選択の発生リスクも孕んでいる点が重要です。
3. 信用保証協会の役割と責任共有制度
中小企業者は、金融機関を経由して信用保証協会に信用保証を申請します。信用保証協会は、中小企業者の信用調査・審査を行い、保証を承諾すれば金融機関に信用保証書を発行します。金融機関はこれを基に中小企業者に融資を行い、中小企業者は信用保証料を支払います。 返済不能となった場合、信用保証料では足りない分を信用保証協会が金融機関に代位弁済します。 当初、信用保証協会は融資額を100%保証していましたが(全額保証)、2007年10月からは責任共有制度が導入され、損失の一部を金融機関が負担するようになりました。しかし、2009年12月1日からは再び信用保証協会が全額保証することになり、これは金融機関におけるモラルハザード拡大の一因となったと指摘されています。信用保証協会と金融機関の間には、審査能力に関する情報非対称性が存在し、金融機関がその非対称性を悪用する可能性も指摘されています。 この信用保証協会の役割と、責任共有制度の変遷が、円滑化法の経済効果とリスクに大きく影響を与えている重要な要素です。
4. 緊急保証制度と円滑化法の比較
2008年10月末から2011年3月末まで実施された緊急保証制度は、市区町村長の認定を受けた中小企業者に対し、0.8%以下の低い保証料率で信用保証協会が100%保証する制度でした。当初は6兆円の保証枠でしたが、最終的には36兆円に拡大し、ほぼ全業種が対象となりました。この緊急保証制度は、円滑化法と比較して、より迅速かつ大規模な支援を可能にする制度でした。 しかし、この緊急保証制度もまた、信用保証協会による全額保証がモラルハザードを招く可能性、そして、資源配分の歪みを招く可能性を含んでいました。 円滑化法は緊急保証制度の後継として制定されましたが、その目的や仕組みは、緊急保証制度と共通点も多い一方、より長期的な視点での中小企業支援を目的としていました。両制度の比較検討は、円滑化法の評価を行う上で非常に重要な要素となります。
II.円滑化法におけるモラルハザードと逆選択
円滑化法の信用保証協会による全額保証は、金融機関にとって大きなインセンティブとなり、モラルハザードの発生につながりました。金融機関は、リスクを負うことなく融資を進める傾向にあり、返済能力の低い企業への融資(逆選択)や、経営改善努力を怠る企業への融資継続といった問題が生じました。中小企業者側も、情報を十分に開示せずに融資を受け、経営再建への努力を怠るインセンティブがありました。情報非対称性が問題を複雑化させました。 このため、損失補填を一部にする、金融機関の努力に報いるインセンティブを設けるなどの対策が必要とされます。
1. 信用保証協会による全額保証とモラルハザード
中小企業金融円滑化法において、信用保証協会による融資の全額保証は、金融機関にとって大きなリスク軽減要因となりました。この全額保証制度は、金融機関が中小企業への融資において、厳格な審査を怠り、リスク選好的な行動をとるインセンティブを高める可能性がありました。つまり、たとえ返済能力の低い企業であっても、信用保証協会が損失を全額負担するため、金融機関は融資を実行し、結果として不良債権が増加するリスクを抱えながらも、積極的に融資を行うインセンティブを持つことになります。これが、モラルハザードの発生リスクを高めた要因の一つと考えられます。 更に、信用保証協会は金融機関の審査能力を十分に把握できないという情報非対称性も問題でした。金融機関は、この情報非対称性を巧みに利用し、返済能力の低い企業に融資を行い、損失を信用保証協会に転嫁するインセンティブを持っていた可能性も考えられます。 この全額保証制度は、制度設計上、モラルハザードを誘発する可能性を含んでいたと言えるでしょう。
2. 中小企業側のモラルハザードとゾンビ企業問題
中小企業者側にもモラルハザードが発生する可能性がありました。中小企業が経営に関する重要な情報や不良債権を隠蔽したまま、金融機関から融資を受けられる状況では、経営努力を怠り、破綻した際に損失を金融機関に押し付けるインセンティブが生じます。この場合、金融機関は中小企業の潜在的な回復力を正確に把握することが困難であり、結果的に経営努力をしない企業を延命させることになり、ゾンビ企業の温存を招く可能性があります。 この問題は、中小企業と金融機関間の情報非対称性から発生するもので、中小企業が破綻する確率に関する情報が中小企業側に偏在していることがその背景にあります。 中小企業側が、この情報非対称性を巧みに利用することで、モラルハザードが発生し、結果として経済全体の効率性を低下させる可能性があるのです。
3. 逆選択問題と責任共有制度の有効性
全額保証制度は、逆選択問題も引き起こす可能性がありました。金融機関は、貸倒れリスクの高い企業に高額な融資を行うインセンティブを持つため、本来、経営を健全化できる企業への融資が不足する可能性があります。 この逆選択問題に対処するため、以前は原則として信用保証協会が融資額を100%保証していましたが、金融機関のリスク負担を公的部門に転嫁するモラルハザードを抑制するため、2007年10月より損失の一部を金融機関が負担する責任共有制度が導入されました。しかし、円滑化法施行後の2009年12月からは再び全額保証に戻ったため、金融機関による制度の活用が急増したとも指摘されています。 責任共有制度は、金融機関にリスクを負わせることでモラルハザードを抑制する効果が期待されましたが、全額保証への回帰により、その効果は限定的であった可能性が高いと言えるでしょう。
4. モラルハザード抑制のための提案 インセンティブ設計と情報共有
モラルハザードの抑制策として、信用保証協会と金融機関の利害を一致させることが提案されています。これは、労働市場における固定賃金と出来高払い賃金のような考え方です。信用保証協会が金融機関の損失を一部負担する(固定賃金)一方で、金融機関が中小企業者の経営を健全化に導いた場合、追加の報酬(出来高払い)を支払うことで、金融機関に努力するインセンティブを与える仕組みです。 また、金融機関と中小企業者間のモラルハザード抑制のためには、金融機関によるモニタリングコストの増大や、中小企業者への情報提供メリットの強調が重要になります。 これらの対策は、情報非対称性を軽減し、金融機関と中小企業者双方の努力を促すことで、モラルハザードと逆選択問題を抑制することに繋がる可能性があります。
III.金融機関と中小企業者の交渉ゲームとナッシュ均衡
金融機関と中小企業者の関係をゲーム理論を用いて分析すると、円滑化法の下では、金融機関は中小企業者から十分な情報を得るインセンティブが弱まり、ナッシュ均衡において非効率的な結果が生じる可能性があります。金融機関が中小企業者の情報を十分に得るためには、融資条件の見直し、返済条件の緩和など、中小企業者にとって魅力的な条件提示が必要となります。これにより、両者の利得を増やし、金融機関の負担を軽減する効率的な資源配分に繋がることが期待されます。
1. ゲーム理論による分析枠組み
このセクションでは、金融機関と中小企業者の関係を、ゲーム理論の枠組みを用いて分析しています。中小企業金融円滑化法の適用を受けた中小企業者が債務不履行に陥った場合、信用保証協会が損失を補填するため、金融機関は融資に際し、中小企業者から十分な情報を引き出すインセンティブが弱まると考えられます。 このため、金融機関と中小企業者をゲームの主体と捉え、両者にとって望ましい取引均衡(ナッシュ均衡)を分析することで、融資審査における金融機関の精査と中小企業者からの情報提供の重要性を明らかにしようとしています。 ナッシュ均衡において、金融機関が中小企業者から十分な情報を取得し、精査を行うことで、両者の利得が増加し、金融機関の負担が減少する可能性を示唆しています。 この分析は、情報非対称性下における金融機関と中小企業者の行動を理解する上で重要な役割を果たしています。特に、純粋戦略と混合戦略の概念を用いて、中小企業者が情報提供を行う確率を考慮した分析がなされています。
2. 情報提供と金融機関の負担軽減の関係
ゲーム理論の分析を通じて、中小企業者から金融機関への十分な情報提供が、金融機関の負担軽減に繋がる可能性が示されています。 中小企業者が事業内容や経営計画などの情報を積極的に提供することで、金融機関は融資リスクをより正確に評価し、適切な融資判断を行うことができます。その結果、不良債権の発生率を抑制し、金融機関の負担を減らすことが期待されます。 しかし、信用保証協会による損失補填があるため、金融機関は情報収集に十分なコストを掛けず、リスクを軽視する可能性も指摘されています。 このため、情報提供のインセンティブを高める仕組みや、金融機関の情報収集コストを軽減する仕組みの導入が、より効率的な資源配分とナッシュ均衡の実現に重要となるでしょう。 情報提供を促進するための具体的な方策についても、今後の検討課題として残されています。
3. ナッシュ均衡の存在と混合戦略
このセクションでは、純粋戦略のみを考慮した場合、ナッシュ均衡が存在しない可能性が示唆されています。 純粋戦略とは、各プレイヤーが常に一定の行動をとる戦略であり、この状況下では、金融機関と中小企業者の間で安定した取引均衡が成立しない可能性があります。 現実的には、プレイヤーは確率的に行動を選択する混合戦略をとることが自然であるとされています。中小企業者は、ある確率で情報を十分に提供し、別の確率で情報提供をしないというような行動をとる可能性があります。 混合戦略を考慮することで、より現実的なナッシュ均衡を求める試みがなされています。この混合戦略の導入は、情報非対称性とリスクをより正確に反映した、より現実的な分析を可能にしています。 このナッシュ均衡の分析を通じて、円滑化法における情報非対称性とモラルハザードの問題をより深く理解することができます。
IV.円滑化法の運用成果と課題
円滑化法の施行により、一時的に融資は増加しましたが、利用企業のリピート化や信用保証協会の回収率低下といった問題も発生しました。2010年10月のアンケート調査では、対象企業9,674社のうち237社(2.4%)が円滑化法を利用し、その多くが返済繰り延べ等の条件変更を受けていました。しかし、経営改善への支援は不十分で、多くの企業が販売不振による倒産に至っている状況が示唆されました。円滑化法終了後の調査でも、金融機関による経営支援の不足が指摘されており、中小企業の経営再建支援強化の必要性が示唆されています。2012年末現在、28金融機関に4兆1234億円もの公的資金が未返済であったことも重要な事実です。
1. 円滑化法の利用状況と条件変更の内容
帝国データバンクの2010年10月実施アンケート調査(対象企業数9,674社)によると、円滑化法の利用申請は237社(2.4%)にとどまりましたが、そのうち180社(75.9%)が条件変更に応じてもらっていました。条件変更の内容では、「返済の繰り延べ」(6ヶ月~1年未満が32%、1年以上2年未満が19.7%)が最も多く、次いで「毎回の返済額の減額」(17.1%)でした。 2014年3月までのデータでは、申し込み件数が増加するにつれて、実行件数と謝絶件数も増加傾向にありましたが、申し込み件数に対する実行件数の割合は毎年度90%以上と高く、謝絶率は10%程度でした。 2010年3月末から申し込み件数が逓増している点は、円滑化法の施行によって、中小企業者が条件変更の相談をしやすくなったことを示唆しています。しかしながら、必ずしも全ての企業の希望が叶えられたわけではなく、支援の行き届いていない部分も存在したと考えられます。
2. 信用保証協会の業務実績と回収率の問題
円滑化法に限定した信用保証協会の保証承諾、保証債務額、代位弁済額などのデータは入手困難です。しかし、信用保証協会の業務実績から、円滑化法施行後の2010年度以降、代位弁済件数(金額)と新規の保証承諾件数(金額)は減少傾向にあります。 それでも、信用保証協会による回収率が低迷し、日本政策金融公庫が協会へ支払う保証金が増加したことが、円滑化法終了の一因として挙げられています。円滑化法では信用保証協会が全額保証を行う一方、2007年10月より責任共有制度が導入されていましたが、2009年12月1日からは再び全額保証に戻りました。 この全額保証の復活は、金融機関にモラルハザードを助長した可能性があり、結果として中小企業者への経営支援が不十分であったと解釈できる部分があります。保証額や割合からも、金融機関が全額保証に頼り、安易な融資を行った可能性が示唆されます。
3. 金融機関による経営支援の内容と倒産原因
帝国データバンクの2013年1月21日発表の調査(対象企業1万293社、利用企業775社)によると、金融機関から受けた支援内容で最も多かったのは「特にない」(50.1%)であり、「経営再建計画の策定支援」「担保・保証条件の柔軟な対応」「外部専門家の紹介」などが続きます。一方、「経営に有益な情報の提供」「経営課題の発掘・解決補助」「取引先の紹介」「業態の変更の助言」などは少ない割合にとどまりました。 円滑化法適用後に倒産した企業の主要な原因が「販売不振」であることから、金融機関は取引先の紹介やマーケティング手法などの指導・助言を行うべきだったと指摘されています。 2012年10月30日から11月28日に行われた調査(対象金融機関:全国の普通銀行359機関)では、改善計画の目標を40%以下しか達成していない金融機関が半数を占めており、金融機関の支援不足も示唆されています。地方銀行や信用金庫での倒産が多い点は、金融機関の資金供給力や経営改善指導力の差を示している可能性があります。
4. 円滑化法のメリット デメリットと今後の課題
円滑化法は、返済猶予や返済期限の延長といった、従来から金融機関がおこなってきた対応に法的な強制力を持たせたものです。これにより、中小企業者は金融機関に発言しやすくなり、経営を立て直す時間を確保できるというメリットがありました。 しかし、返済猶予や返済期限の延長は、既に金融機関が提供していたサービスの一環であり、目新しい支援策ではなかったという指摘もあります。また、信用保証協会の全額保証によるモラルハザードや、金融機関の経営支援の不足といったデメリットも発生しました。 経営者側の返済猶予や返済期限延長の希望期間は、金融機関が許容する期間より長いケースが多く、経営状況の深刻さがうかがえます。 円滑化法の終了後も、中小企業経営力強化支援法などの支援策が実施されてきましたが、中小企業の経営改善を支援するには、金融機関の積極的な姿勢と適切な支援内容が不可欠であると言えます。
V.今後の政策提言
円滑化法は、中小企業と金融機関の情報非対称性を解消し、資源配分の効率性を高めることを目指しましたが、その効果は限定的でした。モラルハザードと逆選択の問題を抑制するためには、信用保証協会の保証制度の見直し、金融機関のリスク負担の増加、そして中小企業者への経営支援強化が不可欠です。中小企業の経営再建を支援する政策においては、金融機関の公共性を考慮した上で、より効果的な制度設計と運用が求められます。