Microsoft Word - 2中扉

実業家列伝: 知の編集

文書情報

著者

神奈川県立図書館司書

場所 神奈川県
文書タイプ 書籍
言語 Japanese
フォーマット | PDF
サイズ 16.44 MB

概要

I.渋沢栄一と攘夷計画

幕末、尊王攘夷運動の高まりの中、渋沢栄一は尾高惇忠、渋沢喜作と共に横浜を焼き討ちにする計画を密議しました。しかし、尾高長七郎の説得により中止され、京都へ逃亡しました。このエピソードは、若き日の【渋沢栄一】の行動と、当時の激動する【日本】の状況を物語っています。関連キーワード:【攘夷】、【幕末】、【京都】

1. 攘夷計画の立案と目的

尊王攘夷運動の高まりを受けて、渋沢栄一は従兄の渋沢喜作、尾高惇忠と共に攘夷計画を密かに立案しました。この計画の目的は、まず高崎城を占拠し、兵備を整えた後、鎌倉街道を経由して横浜へ進軍し、横浜を焼き討ちにすること、そして外国人を殺害することでした。この計画は、当時の社会情勢における強い反外国感情と、若き渋沢栄一らの行動力を示す重要なエピソードです。計画の具体的な内容は、高崎城の掌握による軍事力の確保、鎌倉街道を利用した効率的な進軍ルートの選択、そして横浜への奇襲攻撃による外国人の排除という、綿密に練られた戦略に基づいていました。彼らの決意の固さは、70名近い同志を集めたという事実からも窺えます。

2. 計画の中止と京都への逃亡

しかし、計画は実行されませんでした。尾高惇忠の弟であり、尊皇攘夷運動家でもあった尾高長七郎の説得によって、渋沢栄一らは攘夷計画を中止せざるを得ませんでした。計画が露見したわけではありませんでしたが、幕府の取り締まりを懸念し、故郷に留まる危険性を認識した栄一と喜作は、一橋家の用人である平岡円四郎の家来を装って京都へ逃亡しました。この行動は、彼らが攘夷運動という危険な思想に深く関わっていたことを示しており、彼らの政治的判断と危機管理能力、そして将来への展望を示唆しています。京都への逃亡という決断は、単なる逃避ではなく、今後の活動の拠点とするための戦略的な選択であった可能性も考えられます。この出来事は、渋沢栄一の生涯における重要な転換期であり、後の彼の活躍につながる伏線となっていると考えられます。

II.明治維新期の経済活動と実業家たち

明治維新後、混乱期の経済環境の中、多くの実業家が成功を収めました。【三野村利左衛門】は三井家の発展に貢献し、【古河市兵衛】は【古河財閥】を築き上げました。また、【浅野総一郎】はセメント事業で成功を収め、【高峰譲吉】は日米間の文化交流に貢献しました。これらの実業家は、日本の近代化に大きく貢献した存在です。関連キーワード:【明治維新】、【実業家】、【財閥】、【三井】、【古河】、【浅野セメント】

1. 明治維新後の混乱と経済状況

明治維新後、日本は政治・社会の大きな変革期を迎え、経済状況も不安定でした。特に農漁村では経済環境が悪く、多くの商売がうまくいかなかったと記述されています。この混乱期においても、一部の実業家は着実に成功を収め、日本の近代化を支える重要な役割を果たしました。 文書からは、維新期の混乱が経済活動に大きな影響を与え、特に農漁村地域では商売が困難であった様子が伺えます。このような不安定な状況下で、後に成功を収める実業家たちがどのように困難を乗り越え、独自のビジネスモデルを確立していったのか、その過程が注目されます。この時代における経済の変動と、個々の実業家の対応が、日本の近代経済史を理解する上で重要な要素となります。

2. 主要実業家とその功績

この節では、明治維新期において成功を収めた複数の主要な実業家とその業績が紹介されています。まず、三井家の大番頭であった三野村利左衛門は、幕末の御用金の減額交渉に成功し、三井財閥の発展に大きく貢献しました。古河市兵衛は古河財閥の創始者として、生糸貿易や鉱山経営で成功を収めました。特に足尾銅山の再生は大きな功績として挙げられていますが、同時に深刻な鉱毒問題を引き起こしたことも記述されており、成功の裏にある負の側面も示唆されています。また、浅野総一郎は渋沢栄一の協力を得てセメント事業で成功を収め、太平洋セメントの礎を築きました。さらに高峰譲吉は日米間の文化交流に貢献し、東洋経済評論などの英文雑誌の発刊も手がけました。これらの実業家たちの活動は、明治期の日本経済の成長と発展に不可欠なものでした。彼らがどのような経営戦略を取り、どのような困難に直面し、それをどのように乗り越えたのかを知ることは、現代の経営にも示唆を与えてくれるでしょう。

III.日本の近代化を支えた企業と人物

【日立製作所】の創業者である【小平浪平】は、国産モーターの開発や関東大震災後の復興に貢献しました。また、【久原房之助】は【久原鉱業】を基盤に【久原財閥】を築き上げ、「鉱山王」と呼ばれました。【鮎川義介】は日産コンツェルンの創始者として知られ、久原財閥の再建にも携わっています。さらに、【石橋正二郎】は【ブリヂストン】を設立し、日本のタイヤ産業を確立しました。これらの企業と人物は、日本の近代化と産業発展に大きな影響を与えました。関連キーワード:【日立製作所】、【久原財閥】、【日産コンツェルン】、【ブリヂストン】、【小平浪平】、【久原房之助】、【鮎川義介】、【石橋正二郎】

1. 日立製作所と小平浪平の貢献

日立製作所の創業者、小平浪平は東京電燈勤務を経て久原鉱業日立鉱山に入社。 そこで、外国製電気機械の修理を行う傍ら、国産初の5馬力モーターを開発するなど、日本の電気機器産業の発展に貢献しました。関東大震災後には、茨城県の日立工場が比較的被害が少なかったこともあり、東京電燈や鉄道省からの注文が殺到し、日立製作所の発展を加速させました。昭和4年には日立製作所社長に就任し、技術開発に力を入れ、日立研究所の設立などにも尽力しました。小平浪平の功績は、国産電気機器の開発という技術面での貢献のみならず、関東大震災からの復興に貢献した点、そして世界恐慌などの困難な時期を乗り越えて日立製作所を成長させた経営手腕にも見られます。日立製作所の創業期から戦時体制への移行まで、小平浪平の経営哲学とリーダーシップが日本の産業近代化に大きな影響を与えたと言えるでしょう。

2. 久原財閥と久原房之助 鮎川義介の役割

久原房之助は「鉱山王」と呼ばれ、久原鉱業を基盤に久原財閥を形成しました。 彼は赤沢銅山(日立銅山と改称)の買収など積極的な鉱山経営を行い、日本の鉱工業の発展に寄与しました。しかし、久原財閥は産銅事業の不振や投機失敗で経営危機に陥り、その再建を依頼された鮎川義介は、親族からの援助や企業再編によって財閥を立て直しました。鮎川義介は、日産コンツェルンの創始者としても有名であり、久原財閥の再建以外にも、可鍛鋳鉄工場の設立や、第一次世界大戦後の好景気を利用した事業拡大など、日本の近代産業の発展に多大な影響を与えた人物です。 久原房之助と鮎川義介の活動は、日本の近代化における、鉱山産業の重要性と財閥の役割、そして経営再建における困難と戦略を浮き彫りにしています。彼らの成功と失敗は、後の日本の経済活動に大きな教訓を残しました。

3. ブリヂストンと石橋正二郎の経営哲学

石橋正二郎は、「純日本の資本と純日本人の技術者の力で、世界一のタイヤをつくる」という信念のもと、ブリヂストンタイヤ株式会社を設立しました。 当初は品質保証にこだわり、不良品を無償で交換する徹底した姿勢をとった結果、多くの返品に直面しましたが、品質改良を続け、日本のタイヤ産業を確立しました。昭和27年にはブリヂストン美術館を開設し、社会貢献にも努めました。石橋正二郎の経営哲学は、品質への徹底したこだわりと、社会への還元という理念を両立させた点に特徴があります。 不良品返品という危機を乗り越え、品質改良によって事業を拡大した彼の経験は、現代の企業経営においても重要な示唆を与えてくれます。また、ブリヂストン美術館の設立は、企業の社会的責任(CSR)の先駆けとなる活動と言えるでしょう。

IV.松竹と大谷竹次郎の活躍

【大谷竹次郎】は、祇園座を拠点に活躍し、後に【松竹】を創立、日本の映画・演劇界に大きな足跡を残しました。関東大震災による被害からの復興や、戦後の歌舞伎座再建など、困難を乗り越え、日本の大衆芸能の発展に尽力しました。関連キーワード:【松竹】、【大谷竹次郎】、【歌舞伎】、【映画】、【演劇】、【関東大震災】

1. 大谷竹次郎の生い立ちと松竹への道

大谷竹次郎は、相撲興行に同行する貧しい生活を送っていましたが、祖父が祇園座の水場の株を購入したことで生活が安定しました。その後、京都市立有済小学校に通いながら家業を手伝い、九代目市川團十郎らの芝居を観たことがきっかけで、演劇興行に興味を持つようになりました。浅草六区に進出し、吾妻座、御国座などの劇場経営を経て、活動写真(映画)にも進出。末弟や劇作家らを欧米に視察に派遣するなど、先進的な取り組みを行っています。祇園座での経験と、浅草六区における劇場経営は、大谷竹次郎のエンターテイメントビジネスにおける基礎を築いたと言えるでしょう。 幼少期の貧しい生活から、演劇への関心を抱き、そして松竹の設立へと至るまでの過程は、彼の並々ならぬ努力と情熱を物語っています。 この経験が、後の松竹の成功に大きく貢献したと考えられます。

2. 松竹の設立と発展 そして関東大震災

大正9年2月、大谷竹次郎は松竹キネマ合名社を設立しました。その後、帝国活動写真株式会社を買収し、松竹キネマ株式会社と改称。歌舞伎座全焼後の再建にも尽力しましたが、大正12年の関東大震災で歌舞伎座を始め多くの劇場を失いました。しかし、大谷は再建に尽力し、大正14年1月には歌舞伎座の再建を完成させました。 松竹の設立から関東大震災、そして歌舞伎座再建までの過程は、大谷竹次郎の経営手腕と、日本の大衆芸能界に対する影響力の大きさを示す重要なエピソードです。 特に、関東大震災からの復興は、彼のリーダーシップと決断力、そして周囲の人々との協力体制の重要性を示しています。この経験は、後の松竹の発展にも大きく貢献したと考えられます。

3. 戦後の松竹と大谷竹次郎の功績

戦後、GHQによる歌舞伎の上演制限などの困難な状況の中、大谷竹次郎は松竹の再建に尽力しました。 昭和26年には3度目の歌舞伎座再建を成し遂げ、国産初のカラー映画も公開。 その後も歌舞伎の海外公演を実現させるなど、日本の演劇・映画界の発展に貢献しました。 戦後の混乱期においても、大谷竹次郎は日本の伝統芸能である歌舞伎を守り、発展させるために尽力し、その功績は日本の文化史においても重要な位置を占めています。 また、映画産業においても、国産初のカラー映画の公開など、大きな功績を残しています。彼の努力は、日本のエンターテイメント産業の近代化に大きく貢献したと言えます。

V.堤康次郎と箱根 東京の開発

【堤康次郎】は、箱根の開発や東京の住宅地開発で成功を収め、日本の近代都市開発に大きな影響を与えました。【箱根山戦争】など、激しい競争を繰り広げながら、箱根を世界的な観光地へと発展させました。関連キーワード:【堤康次郎】、【箱根】、【東京】、【都市開発】、【西武百貨店】

1. 箱根の開発と観光地化

堤康次郎は、箱根の開発に情熱を注ぎました。当時、箱根は牧歌的な温泉地でしたが、堤はそれを別荘地、そして世界的な観光地へと発展させることを目指しました。地元住民を説得し、協力を得ながら大正8年から開発を進めました。 箱根開発は、単なる土地開発ではなく、観光産業育成という視点も含まれており、その先見性と地域住民との良好な関係構築が成功の鍵であったと考えられます。湯河原、三島、伊豆半島への開発にも目を向け、駿豆鉄道の経営権を巡る「ピストル堤」事件など、積極的な行動が目立ちます。昭和7年には日本初の自動車専用道路である十国自動車専用道路を建設するなど、インフラ整備にも力を入れています。 戦後も箱根開発への情熱は衰えず、東急グループの五島慶太との「箱根山戦争」「伊豆戦争」と呼ばれる長期にわたる競争も繰り広げられました。このことは、箱根開発がいかに激しい競争の舞台であったかを示しています。

2. 東京における住宅地開発と都市計画

堤康次郎は箱根だけでなく、東京市内外の住宅地開発にも積極的に取り組みました。「目白文化村」や計画的な商店街「百軒店」、娯楽施設「新宿園」など、当時の先端的な暮らしを提案する開発を行っています。 さらに、学園都市構想の先駆けとして、国立、大泉、小平を学園都市として開発。特に国立学園都市は、堤自身も晩年に「自慢の一つ」と語るほどの大規模な開発でした。 これらの開発は、単なる住宅地の供給にとどまらず、都市計画全体のレベルにおいて、新しい生活様式やコミュニティの形成に大きく貢献したと言えるでしょう。戦後も旧皇族や旧華族の邸宅地を買収し、ホテル経営や住宅地開発を継続したことは、彼の不動産事業における着実な戦略を示しています。 これらの活動は、現代の都市開発においても重要な示唆を与えてくれるでしょう。

3. 西武百貨店と武蔵野デパート

堤康次郎は、土地開発の資金を得る目的で百貨店事業にも参入しました。昭和15年に武蔵野デパートを買収し、設立。戦火で焼失しましたが、すぐに営業を再開。都下初の私設青果卸売市場運営会社を設立するなど、革新的な事業を展開しました。 武蔵野デパートは、池袋駅周辺の人口増加という好条件を生かし、発展を遂げました。 しかし、堤の百貨店経営は、「感謝と奉仕」を基本としながらも、仕入れ体制や組織管理体制に課題があったと記述されており、その経営における課題についても触れられています。息子の堤清二が後継者となり、経営の近代化が進められ、西武百貨店を中心とした流通グループへと発展しました。 西武百貨店は、堤康次郎の土地開発事業にとって、資金源としての役割も担っていたと見られます。

VI.中村屋と黒光晶子の社会貢献

【黒光晶子】は夫と共に【中村屋】を経営し、芸術家支援やロシア文学の紹介など、文化交流に貢献しました。サロン活動を通して、多くの芸術家や文化人を育成し、日本の文化の発展に寄与しました。関連キーワード:【中村屋】、【黒光晶子】、【芸術】、【文化交流】、【ロシア文学】

1. 中村屋サロンと芸術家支援

中村屋サロンは、芸術に深い造詣を持つ相馬愛蔵と黒光晶子夫妻が中心となって運営され、多くの芸術家を支援しました。 荻原碌山、高村光太郎、中村彝など、著名な芸術家たちがサロンに出入りし、交流を深めました。 サロンでは、芸術活動の支援にとどまらず、物資面での援助も行われていたことが伺えます。黒光晶子の深い知識と人脈が、サロンの活況を支えていたと言えるでしょう。 このサロンは、明治末期から大正時代にかけて、日本の芸術界に大きな影響を与えた重要な拠点の一つであり、多くの芸術家の育成と創作活動の支援に貢献しました。 特に、黒光晶子の芸術に対する造詣の深さと、芸術家たちへの温かい支援は、サロンの成功に大きく貢献したと推測されます。

2. ロシア文学研究会と文化交流

黒光晶子はロシア文学にも造詣が深く、ロシア語の研究を始めました。 早稲田大学の若手研究者たちと勉強会を開き、『罪と罰』や『アンナ・カレーニナ』などの英訳を読破するなど、積極的にロシア文化の研究に取り組みました。 さらに、島村抱月や松井須磨子らとの交流を通じて、戯曲の朗読会や演劇公演も行われ、明治末期から大正時代にかけての芸術運動を支える役割を果たしました。 黒光晶子の活動は、単なる文学研究にとどまらず、異文化交流や芸術活動の促進といった、幅広い社会貢献に繋がっていることがわかります。 彼女の積極的な姿勢と、多様な人々との交流は、当時の日本の文化水準の向上に貢献したと言えるでしょう。

3. ワシリー エロシェンコと中村屋の国際交流

ウクライナ出身の盲目の詩人、ワシリー・エロシェンコは中村屋の工房に迎えられ、黒光晶子に温かく見守られました。 彼は中村屋サロンの人々にロシア民話を紹介し、バラライカを演奏するなど、サロンの国際色豊かな雰囲気を醸成する役割を果たしました。 鶴田吾郎や中村彝は彼をモデルにした作品を残しており、芸術活動にも貢献したことがわかります。 しかし、大正10年には社会主義者の嫌疑で国外退去命令が出され、中村屋は警察の乱暴な行為に遭いました。この事件で、愛蔵・黒光夫妻は淀橋警察署長を訴え、辞職に追い込むなど、強い正義感と行動力を見せました。 エロシェンコを通じて広まったボルシチは、中村屋の看板メニューとなり、国際交流の象徴として受け継がれています。

VII.知久平次郎とZ計画

太平洋戦争末期、知久平次郎はアメリカ本土爆撃を計画する【Z計画】を推進しました。この計画は、当時の日本の技術力では実現不可能なものでしたが、彼の先見性と技術開発への情熱を示すエピソードとなっています。関連キーワード:【知久平次郎】、【Z計画】、【太平洋戦争】、【戦略爆撃機】

1. 知久平次郎のZ計画構想

昭和17年頃、知久平次郎はアメリカの工業力を冷静に分析し、日本本土への爆撃を予見していました。 翌年、「必勝戦策」と題する論文を著し、政財界に配布しました。その内容は、6基のエンジンを搭載し、20トンの爆弾を積載できる超大型戦略爆撃機「Z機」を開発し、アメリカ本土を爆撃後、ドイツに着陸するという、非常に野心的なものでした。 この計画は、当時の日本の技術力や工業力では実現不可能なものであったにも関わらず、その先見性と大胆な発想は注目に値します。 知久平次郎は、戦争の趨勢を的確に読み取り、日本の敗北を予感していたと考えられ、その危機感を背景にZ計画を立案したと推測できます。この計画は、敗戦濃厚な状況下において、日本がどのような戦略的思考を持っていたかを示す重要な資料と言えるでしょう。

2. Z計画の承認と開発の困難

昭和18年、陸海軍はZ計画を承認し、軍需省も加わって「富岳」計画として官民挙げての開発が始まりました。 しかし、その設計は当時の日本の技術力、工業力をはるかに超えるものでした。 中島飛行機などの総力を挙げて開発に取り組んでも、困難を極めました。 開発の理解者であった東条英機首相の辞任や、本土防空のための迎撃戦闘機生産の優先など、様々な要因が開発の中断を招きました。 開発が中止されたのは昭和19年6月でした。 Z計画の失敗は、日本の技術力と工業力の限界、そして戦争末期の混乱した状況を如実に示しています。 この計画の経緯を知ることは、当時の日本の政治的、経済的、そして技術的な状況を理解する上で非常に重要です。 また、計画の挫折は、過大な目標設定と現実の乖離という、現代の計画立案においても重要な教訓と言えるでしょう。