
実践の学:教育改革とポスト資本主義社会
文書情報
著者 | 鈴木敏正 |
専攻 | 教育学 |
会社 | 開発論集 |
文書タイプ | 論文 |
言語 | Japanese |
フォーマット | |
サイズ | 2.31 MB |
概要
I.市民性とグローバリゼーションの変容
この論文は、グローバリゼーションの文脈における市民性(citizenship)の概念変容を論じています。特に、権利(rights)概念の拡大(市民的・政治的・社会的権利を超えた集合的権利、自然権、文化権の主張)、責任(responsibilities)の集合化・共有化への移行、コミュニケーション社会(communication society)における市民参加(participation)の拡大、そして多様なアイデンティティ(identity)の形成といった変化を分析しています。 ヴェーバーの合理化論(rationalization)の見直しが必要であると主張し、非西欧圏における資本主義発展(外発的近代化)と社会主義諸国の崩壊という二つの出来事を契機に、グローバリゼーションをモダニティの変容・高度化と捉えるギデンズやトムリンソンの立場を踏まえつつ、現代社会の新たな理解を探求しています。
1. シティズンシップの構成要素の変容
この節では、グローバリゼーションの影響下における市民性(シティズンシップ)の概念的変化が分析されています。従来の市民的、政治的、社会的権利に加え、集合的権利、自然権、文化権といった新たな権利概念が台頭している点を指摘。特に、文化的シティズンシップの興隆は、市民の消費者化と深く関連しており、人権が抽象的な人間性ではなく、「個人の自立と個人化の権利」を意味するようになったと論じています。責任(responsibilities)に関しても、個人の責任から集合的責任、共責任への移行が見られる一方、国家は「組織された無責任」の状態にあり、責任の所在は市民社会に移行しつつあると分析。さらに、コミュニケーション社会の進展により、公共圏は「フローの空間」や「討議空間としてのネットワーク」へと変容し、国籍を超えた世界的な市民参加が広がりを見せていると指摘しています。そして、アイデンティティ(identity)については、「第2世代の人権」以降、社会的、発展的、集団的、文化的な権利の拡大に伴い、人格的個性の文化表現が多元化し、平等と差異の調和が求められる状況にあると論じています。 全体として、グローバリゼーションが市民性概念の多層化、複雑化、流動化をもたらしている様子が示されています。
2. ヴェーバー合理化論とグローバリゼーション インパクト
この節では、マックス・ヴェーバーの合理化論(rationalization)を現代社会に適用する際の課題が検討されています。特に、厚東の主張を引用し、ヴェーバーの理論が説明できない二つの現象、すなわちNIEsやBRICs諸国における急速な資本主義発展と、社会主義諸国の崩壊を取り上げています。厚東は、前者については「外発的近代化」や「モダニティの移転」、後者についてはEU型の「プロフェッション-官僚制」への移行という合理性の発展の結果であると解釈。グローバリゼーションを「合理化の一つの局面」として捉えつつも、ハイブリッドなモダニティの実験場としての日本における具体的な展開には触れていません。 この議論を通して、グローバリゼーションはヴェーバー理論、特に合理化論の見直しを迫る重要な契機であると結論づけています。同時に、ギデンズやトムリンソンがグローバリゼーションをモダニティの変容・高度化と捉えている点を指摘し、現代社会におけるモダニティ理解の多様性を示しています。
II.現代資本主義の危機とポスト資本主義
シュトレークの議論を引用し、2008年以降の資本主義危機を分析しています。 資本主義は「長い空白期間」(グラムシ)に突入し、自己破壊に向かう可能性があると指摘。その症状として、経済的停滞、少数独裁的配分、公共領域の収奪、腐敗、グローバル秩序崩壊を挙げ、資本主義の「時間的な差異」と「通時的共通性」を強調することで、持続的イノベーションと社会・経済的正義の対立を資本主義の根源的特徴として捉えています。ポスト資本主義(post-capitalism)への移行の可能性と課題が議論の中心です。
1. 2008年以降の資本主義危機 グラムシの 空白期間
この節では、シュトレークの著作『資本主義はどう終わるか』(2016年)を引用し、2008年以降の資本主義危機が分析されています。シュトレークは、この危機を資本主義危機の新たな段階と位置づけ、アントニオ・グラムシの概念である「長い空白期間」に相当すると主張。この期間は、「脱制度化した社会あるいは制度構築中の社会」であり、社会的混乱と無秩序が支配する時代であると説明しています。「古きものは死んだが、新たなるものはいまだ生まれ落ちていない」という表現を用いて、旧来の危機概念では捉えきれない、資本主義システムそのものの根幹が揺らぐ深刻な危機であることを示唆しています。 さらに、新自由主義的な商品化(労働、土地、貨幣の「偽りの商品」化:カール・ポランニー)の進展と、それに伴う経済的停滞、少数独裁的な配分方式、公共領域の収奪、腐敗、グローバル秩序崩壊といった五つの症状を指摘。シュトレークは、これらの症状から、資本主義は長期にわたって苦しみながら朽ちていくと予測しています。
2. 資本主義の 時間的な差異 と 通時的共通性
シュトレークの分析は、比較政治経済学のように資本主義の空間的差異を強調するのではなく、資本主義の「時間的な差異」と「通時的共通性」、すなわち「不安定な共通性」に着目している点が特徴です。 彼は、資本主義を「恒常的な不均衡状態にある政治経済学」と定義し、その不均衡状態は持続的イノベーションと、社会的正義と経済的正義の間の政治的対立によって引き起こされると論じています。そのため、リスクや不安定性といった不確実性を分析の中心に据えている点も強調されています。 従来のポランニーの主張のように、資本主義が非資本主義的制度に「常に埋め込まれている」のではなく、資本主義それ自体が内在する社会的拘束を破壊し、自己破壊に向かう可能性を持つという、資本主義の固有の不安定性を指摘している点が重要です。この不安定性こそが、ポスト資本主義(post-capitalism)への移行を論じる上で中心的な課題となります。
III.ジジェクのポストモダンの共産主義
スラヴォイ・ジジェクの「ポストモダンの共産主義」を論じています。環境破壊、知的所有権問題、科学技術の倫理的問題、新しいアパルトヘイトといった「敵対性」を認識し、プロレタリアート化(行為者から物質的・社会的空間の排除)という問題点を指摘。ネグリ/ハートのコモンズ論(commons)やマルクスの物象化論(commodity fetishism)を参照しつつ、新たな包摂(inclusion)の形態としての「実践の学(practice-oriented scholarship)」の創造を主張しています。東日本大震災を災害便乗型資本主義(shock doctrine)の事例として取り上げています。
1. ポストモダンの共産主義 4つの敵対性
この節では、スラヴォイ・ジジェクの「ポストモダンの共産主義」に関する議論が展開されています。ジジェクは、現代社会の根本的な問題として4つの「敵対性」を指摘しています。それは、①迫りくる環境破壊の脅威、②知的所有権をめぐる私的財産の問題、③新技術(遺伝子工学など)の社会・倫理的な意味、④新しい形態のアパルトヘイト(新しい壁とスラム)です。特に、ネグリ/ハートが「コモンズ」と呼ぶ①と、社会的排除を意味する④は質的に異なる敵対性だと位置づけられています。 ジジェクは、これらの敵対性の根底にある問題として「プロレタリアート化」を指摘。これは、人間を財産を持たない純粋な主体に還元するプロセスであり、①は物質的内容を、④は社会的・政治的空間を奪うという点で異なる側面を持っていると分析しています。これらの「外的」問題を解決するには、「内的主体」の社会的関係を根本から変える必要性を強調し、新たな包摂の形態を探求しています。
2. ネグリへの批判とマルクスの物象化論
ジジェクは、認知労働の非階層・非中央集権的なダイナミクスにコミュニズムの萌芽を見出そうとするネグリの議論に対して批判的な立場を取っています。ネグリ/ハートが主張する「透明な生の生産」は、資本という非物質的な物の関係が人と人との関係に見えている「構造的な幻想」にすぎないと反論。マルクスの物象化・物神性論(commodity fetishism)を用いて、この幻想が「物象の人格化」と「意識における自己疎外」をもたらすと指摘します。しかし同時に、この「疎外化」作用は「解放化という逆の効果」も持ち、形式的な自由と自律を獲得する可能性も孕んでいると述べています。 ジジェクは、マルクス『資本論』における「二重の意味で自由な」労働力商品や、交換過程における自由・平等・所有・ベンサムといったイデオロギーの矛盾を理解する必要性を示唆し、ネグリの議論の限界を指摘しています。 最終的に、「労働者階級の二つの部分の団結は、すでに勝利である」というジジェクの結論は、彼の複雑な思考の一端を示しています。
3. 東日本大震災と 実践の学
ジジェクは、グローバル資本主義の特徴として「ショックドクトリン」=災害便乗型資本主義(ナオミ・クライン)に注目し、東日本大震災をその典型例として挙げています。震災を契機とした反原発運動などの「叛逆サイクル」も触れられていますが、本論文では、災害便乗型資本主義と言える「創造的復興」や「国土強靭化」政策に対する被災者たちの「人間的復興」を求めた活動に焦点を当てています。 この被災地・被災住民の活動と全国的な連帯運動、そしてそれに伴う「自己教育」と社会教育・生涯学習実践の創造こそが、ジジェクのいう「ポストモダンの共産主義」を考える上での重要な「実践」であると示唆しています。 この粘り強い活動の中に、「実践の学(practice-oriented scholarship)」の可能性を見出そうとする筆者の意図が明確に示されています。 ジジェクが最後に「もう一度、本気でコミュニズムに取り組むべきときだ」と述べていることを受け、この「実践の学」の創造が不可欠であると主張しています。
IV.グローカルな時代と新社会科学宣言
「Think Locally, Act Globally」のスローガンを基に、グローカル(glocal)な時代における社会科学の課題を論じています。 ウォーラーステインらの「新社会科学宣言」を引用し、人間と自然、国家、普遍性と特殊性の関係性の再考、信頼できる客観性の再定義といった社会科学の構造変革の必要性を指摘。人間的実践(human practice)を中心とした社会科学の構築を提唱しています。
1. グローカル glocal な時代と Think Globally Act Locally
この節では、「Think Globally, Act Locally」というスローガンを軸に、グローバル化とローカルな課題が複雑に絡み合う「グローカルな時代」の特徴が論じられています。筆者は、1960年代後半以降をグローカルな時代と捉え、戦後体制や近代以降の先進諸国の支配的制度・思想・文化の危機、新たな体制への移行、そして主体形成(subject formation)が重要な課題であったと指摘。冷戦時代にはグローカルな課題の国際的な共通認識が必ずしも確立されていなかった一方、1990年代以降のグローバリゼーションの進展によって、グローバルとローカルの課題が密接に関連し、地球規模での主体形成ないしエンパワーメントが求められるようになったと説明しています。 このスローガンが示すように、グローバルな問題解決にはローカルな視点からの行動が不可欠であり、その両者の関係性を理解することが重要であるという考え方が示されています。
2. イマニュエル ウォーラーステインと 新社会科学宣言
グローカルな時代における社会科学の課題として、イマニュエル・ウォーラーステイン(Immanuel Wallerstein)らが提唱した「新社会科学宣言」が紹介されています。1993年から96年にかけて自然科学者を含む国際的な議論を経て発表されたこの宣言は、社会科学の構造変革のための主要な方向性を示唆するものとして注目されています。 宣言では、①人間と自然の存在論的区別の拒否、②国家を唯一の境界線と考えることの拒否、③多数者と少数者、普遍性と特殊性の対立の受容、④変化する科学的前提に照らした客観性の解明、という4つの主要な次元が提示されています。ウォーラーステインは、21世紀の社会科学の将来展望として、科学と人文学の認識論的再統合、社会科学諸学科の組織上の再統一と再分割、社会科学が知の世界の中心に就くことを挙げています。 これらの議論は、人間と自然の相互関係、グローバルとローカルのレベルでの行動、普遍性と多様性の調和、そして客観性の歴史的・社会的規定性を考慮した間主観的判断を促す社会科学の必要性を示唆しています。
3. ウォーラーステインの社会科学提言と多元的普遍主義
ウォーラーステインは、「新社会科学宣言」の4つの主要な次元を踏まえ、従来の社会科学の「脱思考」(ポストモダン的実践)を超えた新たな社会科学のあり方を提示しています。 具体的には、①人間と自然の複雑性と相互関係の考察、②グローバルとローカルのレベルにおける不確実で困難な行動の分析、③普遍的妥当性と文化的多様性に同時に応える「多元的普遍主義」の追求、④法則定立的社会科学と個性記述的歴史学の対立を超えた、歴史的・社会的規定性と人間的学習を考慮した客観性の追求、といった点を強調。 マルクス『経済学批判』序説へのグラムシの注目や、グラムシの影響を受けたレギュラシオン理論にも言及し、グラムシ的3次元(政治的国家、市民社会、経済構造)に加え、人間と自然の関係を加えた4次元での統一的把握が必要であると示唆しています。 これらの提言は、「人間的実践」を中心とした、グローカルな課題に対応できる社会科学の構築に向けた指針となっています。
V.グラムシと教育 社会変革
アントニオ・グラムシ(Antonio Gramsci)のヘゲモニー論(hegemony)と、それを基盤とする批判的教育学(critical pedagogy)の視点から、教育制度と社会構造の関係を分析。アルチュセール(Louis Althusser)のイデオロギー装置論、アップル(Michael W. Apple)の学校幻想とカリキュラム論、そしてジルー(Henry Giroux)の変革的知識人(transformative intellectuals)の概念などを用いて、教育における権力関係とレジスタンス(resistance)の問題を論じています。 教育改革を「教育労働(educational labor)」の疎外された形態からの脱却として捉え、自己教育(self-education)と地域社会の協働による教育自治(educational autonomy)の可能性を探求しています。
1. アントニオ グラムシのヘゲモニー論と教育
この節では、アントニオ・グラムシのヘゲモニー論(hegemony)が教育制度の分析にどのように適用できるかが論じられています。グラムシのヘゲモニー論は、支配階級がいかにイデオロギーを通じて支配を維持し、再生産していくかを明らかにする重要な枠組みです。 この論文では、特にルイ・アルチュセール(Louis Althusser)のイデオロギー装置論、そしてマイケル・W・アップル(Michael W. Apple)の『学校幻想とカリキュラム』におけるネオ・マルクス主義的なアプローチが紹介されています。アップルは、マルクスの商品・物象化論とイデオロギー論を踏まえ、不平等な生産関係を支えるイデオロギーが、個人の意識に浸透し、現実の世界観を規定していると論じています。 さらに、既存の教育社会学やカリキュラム研究の改良主義や多元主義的民主主義論を超えて、学校と支配階級の間の権力と統制の結びつきを明らかにするために、経済的分析と文化的分析を統合することが必要だと主張。アップルは、学校知識の生産過程、すなわち「誰が知識を選別し、組織し、教えているのか」という問いかけを通して、ヘゲモニーに抗する有機的知識人(organic intellectual)の重要性を強調しています。
2. 批判的教育学と対抗的ヘゲモニー
アップルの『教育と権力』は、制度化された知の体系としてのカリキュラムに対するレジスタンス(対抗的ヘゲモニー)を提起する点で重要視されています。しかし、教師論(teacher's theory)については触れられていません。 この点に関して、グラムシの影響を受けた批判的教育学者、ヘンリー・ジルー(Henry Giroux)の「変革的知識人(transformative intellectuals)」の概念が紹介されています。ジルーは、労働者階級を唯一の革命主体と捉えるのではなく、カルチュラル・スタディーズなどの成果を踏まえ、より広範な主体による社会変革の可能性を指摘しています。 ジルーの視点から見ると、学校は自身と社会へのエンパワーメント(empowerment)に専念する民主主義的な場(民主主義的公共圏)となり得ると考えられています。カリキュラム理論と実践を急進的な社会理論と結びつけ、質的に向上した生活を保障するための知識・技能を生み出すこと、そしてあらゆる支配形態に対抗する闘争とエンパワーメントを結びつける必要性が強調されています。しかし、具体的なエンパワーメント過程にかかわる教育実践の詳細は示されていません。
3. 教育改革と 教育労働 自己教育 そして教育自治
この節では、教育改革のあり方が、教育労働(educational labor) 、自己教育(self-education)、そして教育自治(educational autonomy) の観点から論じられています。教育改革を教育実践自体と捉えるためには、教育制度を「教育労働、特に教育管理労働の疎外された形態」として理解する必要があると主張。 教育実践には、子どもの学習活動を援助する「狭義の教育実践」と、その発展のための組織化と条件整備を行う「広義の教育実践」が含まれます。しかし、教育管理労働が国家や企業の目的に利用されると、教育労働の疎外が深刻化すると指摘。教育制度改革は、子どもを含む地域住民の自己教育過程に即して考えられなければならず、「批判から創造へ」の転換が必要であると強調しています。 ポルトアレグレ市の「市民学校」プロジェクトを例に、コミュニティの知識と伝統的な学校知識の対話、多文化主義の推進、生徒の自己学習と世界への関与を促す実践が紹介されています。この例は、国家の官僚化・国家機関化傾向と経済構造の商品化・資本化傾向の両方を乗り越える教育実践のモデルとして示されています。最終的に、地域レベルでの「地域再生+教育再生=教育自治」の実現が、教育制度改革の現実的な方向性であると結論付けられています。
VI.持続可能な社会と実践の哲学
持続可能な社会(sustainable society)実現のための社会変革の可能性を探求。 ゼロ限界費用システムへの移行、人間の意志力の限界の認識、生態学的持続可能性の確保、経済・人間の両面における移行の必要性などを論じています。 マルクスの経済学批判(critique of political economy)を踏まえ、ガブリエルの新実在論(new realism)とホネット(Axel Honneth)の承認論(recognition theory)を援用することで、再分配(redistribution)、参加(participation)、そして承認(recognition)の三つの次元から現代社会の課題と展望を提示しています。グラムシの「必然から自由への移行」の思想も重要なキーワードとなります。
1. グラムシのヘゲモニー論とネオ マルクス主義的教育論
この節では、アントニオ・グラムシのヘゲモニー論を基にしたネオ・マルクス主義的な教育論が展開されています。特に、アルチュセール(Louis Althusser)のイデオロギー装置論と、アップル(Michael W. Apple)の『学校幻想とカリキュラム』が重要な参照点として挙げられています。アップルは、マルクスの商品・物象化論とイデオロギー論を踏まえ、不平等な生産関係を維持するイデオロギーが、個人の意識に浸透し、社会全体を支配するメカニズムを分析しています。 この分析においては、ヘゲモニー(hegemony)が意識に「浸透」し、既存の社会構造が「自然」なものとして受け入れられる過程が強調されています。 アップルは、既存の教育社会学やカリキュラム研究の改良主義や多元主義的民主主義論を超え、「権力と統制」の結びつきを学校と支配階級との間で明らかにしようと試みています。そのため、経済的分析と文化的分析を統合し、抽象的個人、選別された伝統、イデオロギー的合意、ヘゲモニーを再生産するメカニズムに焦点を当てる必要性を主張しています。そして、学校知識の生産過程、すなわち「誰が知識を選別し、組織し、教えているのか」という問いが重要視されています。
2. 有機的知識人と変革的知識人 教育実践への視座
アップルは、学校現場と教育実践者の視点を重視し、具体的な教育実践の分析に基づいて主張を展開しています。また、カリキュラムとカリキュラム理論の歴史的分析も踏まえています。これらのアプローチは、ボウルズ/ギンタス『アメリカ資本主義と学校教育』にも見られますが、より具体的かつ実証的に検討されている点が特徴です。 特に、「ヘゲモニーに抗する積極的な活動によって理解と行動が統合されているような有機的知識人(organic intellectual)」の重要性が強調されています。 しかし、アップルの議論は、教育制度論的な教師論(teacher's theory)には至っていません。 対照的に、グラムシに学び、アップルと同等の批判的教育学者とされるジルー(Henry Giroux)は、「変革的知識人(transformative intellectuals)」という概念を提示しています。ジルーは、学校を自身と社会へのエンパワーメントに専念する民主主義的な場と捉え、カリキュラム理論や実践を急進的な社会理論と結びつける必要性を主張しています。しかし、具体的なエンパワーメント過程に関する教育実践の詳細は示されていません。
3. 教育改革の課題 教育労働の疎外と自己教育の促進
この節では、教育改革を「教育労働(educational labor)」の観点から考察し、その課題が論じられています。教育改革を教育実践自体と捉えるためには、まず教育制度を「教育労働、特に教育管理労働の疎外された形態」として理解する必要があると主張。教育実践には、「狭義の教育実践」と「広義の教育実践」があり、後者は組織化と条件整備を担う管理労働を含みます。しかし、管理労働が国家や企業の目的に利用されると、教育労働の疎外が深刻化すると指摘しています。 教育制度改革は、子どもを含む地域住民の自己教育過程に即して考えられなければならず、既存制度の批判にとどまらず「批判から創造へ」の転換が必要だと強調。理論的には「フレイレからグラムシへ」、実践的には「前段自己教育から後段自己教育へ」の展開が必要であると述べています。 そして、地域レベルでの「地域再生+教育再生=教育自治」の実現が、教育制度改革の現実的な方向性であると結論づけています。ポルトアレグレ市の市民学校プロジェクトは、この方向性を示す好例として挙げられています。
VII.教育実践と主体形成
マナコルダ(Manacorda)の教育思想と、筆者独自の「主体形成の教育学」を提示。人格の構造、自己疎外(self-alienation)と社会的陶冶(social formation)、自己教育過程、教育労働、教育制度、教育実践といった概念を用いて、教育における主体形成(subject formation)のプロセスを体系的に分析。 グラムシの教育思想を再構成し、知的自己規律と道徳的自律性を育成する「能動的な学校」のあり方を模索しています。また、黒沢の廣松理論を超えた、より包括的な人間理解と社会変革への実践的アプローチが求められると結論づけています。
1. 人格形成と自己疎外 グラムシ的視点からの主体形成論
この節では、教育における主体形成(subject formation)を、グラムシの思想を基に論じています。特に、「人格の構造─自己疎外=社会的陶冶過程─自己教育過程─教育労働─教育制度─教育実践」という概念枠組みを用いて、主体形成のプロセスを体系的に分析しています。 前半部分である「人格の構造─自己疎外=社会的陶冶過程─自己教育過程」に焦点を当て、自己疎外(self-alienation)と社会的陶冶(social formation)の過程が、主体形成において重要な役割を果たすことを示しています。 グラムシの社会的陶冶論は、「アメリカニズムと順応主義」に萌芽が見られ、レギュラシオン理論が取り上げた「フォード主義」の拡充が必要であったと指摘。マナコルダ(M.A. Manacorda)の研究を参考に、常識→良識→「哲学」という意識変革の図式化を示しつつも、グラムシの全体像を「自己教育過程」として捉える視点が欠けていると批判しています。 黒沢の「具体的普遍」としての「歴史的ブロック」という人間理解も、存在論的・関係論的・過程論的な総体的理解や「自己包括的複合体」といった視点からは不十分だと指摘。廣松理論的「関係主義」に陥り、「具体」と「普遍」の機械的な統一に留まっていると批判しています。
2. グラムシ的3次元と教育制度 ヘゲモニーと知的 道徳的自律性
グラムシの「教育思想」の教育学的再構成の必要性を指摘し、特に「ヘゲモニー=教育学的関係」全体の組織化について論じています。竹村の研究が学校教育に限定されている点を踏まえつつ、「知的自己規律と道徳的自律性」を創造する「能動的な学校」のあり方を探求。 「アカデミー」という、文化諸組織や地方サービスと結びつき、生産・労働の世界に結合する全国的な文化の統一化・系統化の機構として、新しい知識人の形成を目的とした構想が紹介されています。 マナコルダが提示する既存の学校制度とは異なる「別の道」の探求として、「アカデミー」と密接に協力する大学・高等教育機関の役割が重要視されています。 筆者は、定型・不定型・非定型の教育類型論の視点から、グラムシが触れている諸組織の関連構造を整理し、不定型教育の類型(教育的改良、地域社会発展、地域社会教育)の重要性を指摘しています。 これは、廣松理論を超え、自己疎外=社会的陶冶論を統合的に理解していく上で不可欠な視点であると結論づけています。
3. 教育実践と 実践の学 自己教育過程と教育自治の可能性
この節では、教育実践における「実践の学(practice-oriented scholarship)」の可能性が探求されています。 マルクス「経済学批判」へのグラムシの注目、そして「アメリカニズムとフォード主義」研究におけるグラムシの経済学的視点、さらにレギュラシオン理論による20世紀的展開の可能性などが議論されています。 「グラムシ的3次元」を、今日のグローカルな環境問題を考慮し、「人間-自然関係」を加えた4次元として展開する必要性が強調。 自己疎外=物象化の展開過程を示すことで、自己教育・相互教育と教育労働といった実践過程を具体的に提示し、それらを克服していく方法を探求することが課題だとされています。 黒沢の「具体的普遍」としての「歴史的ブロック」という人間理解を批判し、より包括的な人間理解と社会変革への実践的アプローチが必要であると結論づけています。 「実践の学」の創造が、ジジェクの言う「もう一度、本気でコミュニズムに取り組むべきとき」に対応する重要な課題であると強調されています。