第2章 第4代神奈川県庁舎(現本庁舎)の建設

帝冠様式建築:歴史と論争

文書情報

学校

日本大学 (Presumably, based on the text mentioning 近江栄 as a professor there)

専攻 建築史 (Architectural History)
出版年 昭和40年代後半〜50年代(推定)
文書タイプ 論文の一部(付論) (Part of a paper/dissertation; an appendix)
言語 Japanese
フォーマット | PDF
サイズ 1.71 MB

概要

I.帝冠様式とは何か その語源と特徴

本稿は、昭和初期に流行した建築様式である「帝冠様式」を分析します。この様式は、鉄筋コンクリート造や鉄骨造の躯体に伝統的な瓦屋根を組み合わせた和洋折衷の建築様式で、国粋主義的な傾向が強いとされています。神奈川県庁舎(小尾嘉郎設計)、名古屋市庁舎などが代表的な作品です。 帝冠様式の語源は、下田菊太郎が国会議事堂設計競技で提案した「帝冠併合式」に由来し、建築史家・近江栄が昭和42年の論文で初めて「帝冠様式」と明確に呼称しました。 近江の研究は、下田菊太郎や伊東忠太佐野利器といった建築家たちの活動と関連付け、和洋折衷建築における帝冠様式の位置づけを明らかにしています。帝冠様式は、単なる建築様式を超え、当時の社会情勢や国民感情を反映したイデオロギー的側面を持つとも解釈できます。

1. 帝冠様式の定義と特徴

帝冠様式は、昭和初期のナショナリズムの高まりの中で生まれた建築様式です。鉄筋コンクリート造や鉄骨造の躯体に、伝統的な和風瓦屋根を組み合わせた和洋折衷様式が最大の特徴です。外観は日本風、東洋風と称されるものの、中国風の色彩が強いと指摘されています。一般的に、1930~40年代のナショナリズムとファシズムの高揚期に建造された建築を指し、神奈川県庁舎(小尾嘉郎、1928年)、名古屋市庁舎(平林金吾、1933年)、軍人会館(小野武雄、1934年)、東京帝室博物館(渡辺仁、1937年)などが代表例として挙げられます。 この様式は、西洋モダニズム建築に対抗する形で登場し、日本の伝統様式を取り入れつつ、近代的な技術を融合させた点が注目されています。しかしながら、必ずしも統一された様式基準があったわけではなく、建築家個々の解釈や設計コンペの結果によって多様な表現が見られます。そのため、単一の定義を下すことは難しく、時代背景や建築事例に基づいた多角的な分析が求められています。

2. 帝冠様式の語源と命名の経緯

帝冠様式の語源は、1918年の国会議事堂設計競技に端を発します。下田菊太郎が提案した「帝冠併合式」が、この様式の名前の起源となっています。下田の提案は、国会議事堂に相応しい日本の伝統的な屋根の意匠を提案するものでしたが、当時としては斬新すぎる提案であったとも評されています。その後、洋風建築に和風屋根を組み合わせる建築が増え、その傾向を包括的に表す名称として「帝冠様式」という言葉が用いられるようになりました。しかし、戦後の建築史において「帝冠様式」という用語が広く認知されるようになったのは、近江栄の研究が契機となっています。近江は昭和42年、建築学会関東支部で発表した論文で、神奈川県庁舎設計コンペを「帝冠様式の魁」と位置づけ、さらに昭和45年には「『帝冠様式』の語源と下田菊太郎について」と題した論文を発表し、この用語の普及に大きく貢献しました。近江の論文発表以前は、西山夘三などによる「日本折衷主義」といった表現にとどまっており、「帝冠様式」という用語は、建築界内部での議論の枠を超えて広まることはありませんでした。

3. 帝冠様式を取り巻く誤解と論争

帝冠様式に関するいくつかの誤解や論争が存在します。一つは、西山夘三の著作には「帝冠様式」や「ファシズム建築」という言葉が登場しないことです。昭和23年時点では「日本折衷主義」という表現にとどまり、昭和31年の著作においても「帝冠様式」という用語は用いられていませんでした。もう一つの誤解は、鉄筋コンクリート造の躯体に瓦屋根を組み合わせた手法の始まりを神奈川県庁舎とする点ですが、神奈川県庁舎は実際には瓦屋根を使用していません。これらの誤解は、帝冠様式に対する理解の不足や、歴史的経緯の複雑さによるものと考えられます。また、昭和56年に刊行された下田菊太郎を主人公としたノンフィクション小説『文明開化の光と闇』によって「帝冠様式」という用語が注目を集めたことも、この様式の理解を複雑にしている要因の一つです。 これらの誤解や論争は、帝冠様式をより正確に理解し、歴史的評価を行う上で、注意深く検討する必要があることを示しています。

II.帝冠様式成立背景 日本建築界の潮流と論争

帝冠様式の成立背景には、明治期からの「日本趣味」論争や、近代建築の国際主義への反動があります。日露戦争後のナショナリズムの高まりと、西洋モダニズム建築への対抗意識が背景にありました。 建築界の巨匠である伊東忠太は、アジア文化を基調とした独自の建築様式を提唱し、佐野利器は設計競技を「新しき様式を突然作り出す」手法として重視しました。 伊東忠太の「進化主義」と佐野利器のコンペ重視という異なるアプローチが、帝冠様式の多様な表現を生み出したと考えられます。 一方、モダニズム建築を主張する建築家たち(例:前川国男)は、帝冠様式を批判的に捉えていました。東京帝室博物館の設計競技はその論争を象徴する出来事でした。

1. 明治期からの 日本趣味 論争と帝冠様式の出現

帝冠様式の成立には、明治維新以降続く「日本趣味」を巡る建築界の論争が深く関わっています。日清・日露戦争の勝利後、日本固有の建築様式を求める機運が高まり、明治43年には「我國将来の建築様式を如何にすべきや」という討論会が開催されました。この討論会では、三橋四郎の「和洋折衷主義」、長野宇平治の「西洋直写主義」、関野貞の新様式創造説などが議論されました。伊東忠太の「進化主義」もこの流れの中に位置づけられます。 一方、明治末期にはヨーロッパのセセッションや表現主義といった近代建築の潮流が日本にも伝来し、建築界に多様な様式が持ち込まれることになります。こうした中で、西洋モダニズム建築とは異なる、日本独自の建築様式を求める動きが強まり、それが帝冠様式の誕生へと繋がったと考えられます。 特に、国会議事堂設計競技における下田菊太郎の「帝冠併合式」の提案は、この流れの中で重要な位置づけを持つと言えます。彼の提案は、当時の建築界に大きな衝撃を与え、後の帝冠様式の基礎を築いたと言えるでしょう。

2. 伊東忠太と佐野利器 対照的なアプローチと国民趣味

帝冠様式の成立において、伊東忠太と佐野利器という二人の建築家の役割は無視できません。伊東忠太は、アジア文化を基軸とした独自の建築様式を提唱し、法隆寺研究を通じて日本の伝統美を再評価しました。彼の思想は、日清・日露戦争後のナショナリズムの高まりと、大アジア主義という時代の空気を反映したものでした。一方、佐野利器は、設計コンペを新しい様式を生み出す手法として重視しました。彼は、コンペによって予期せぬ名案を得られると主張し、多数の応募を推奨しました。 両者ともに「国民趣味」を反映した建築様式が必要だと考えていましたが、そのアプローチは対照的でした。伊東忠太のアプローチはダーウィンの進化論になぞらえることができ、佐野利器のアプローチはド・フリースの突然変異説になぞらえることができるでしょう。佐野の「新しき様式を突然作り出す」という手法は、設計コンペそのものだったと言えるでしょう。 このような、異なるアプローチが帝冠様式という多様な建築様式を生み出したと考えられます。

3. モダニズム建築家との対立と 日本趣味 論争

帝冠様式は、モダニズム建築を支持する建築家たちから強い批判を受けました。東京帝室博物館の設計コンペはその象徴的な出来事です。コンペの募集要項に「日本趣味を基調とする東洋式」と明記されたことに対し、モダニズム建築家たちは反発を示しました。前川国男はモダニズム建築案で応募し落選、その悔しさを「負ければ賊軍」という有名な文章に綴っています。 このコンペの審査員には伊東忠太、内田祥三、佐藤功一、武田五一らが名を連ねており、審査員の顔ぶれから和洋折衷の建築案が当選することが予想されていました。 この出来事は、当時の建築界における「日本趣味」論争、そしてモダニズム建築と伝統的建築との対立を鮮やかに浮かび上がらせています。新興建築家連盟の設立と解散、そして特高による妨害といった出来事も、この論争の激しさを示す一端と言えるでしょう。 これらの対立構造が、帝冠様式という建築様式の形成に大きな影響を与えたと考察できます。

III.帝冠様式とファシズム そして満州国との関係

帝冠様式とファシズムの関係については、戦後の建築史家によって様々な議論がなされてきました。しかし、近年の研究では、帝冠様式が直接的にファシズムと結びつくものではないとする見解が強まっています。 満州国においては、興亜様式と呼ばれる類似の建築様式が見られ、帝冠様式と密接な関係がありました。興亜様式は、日本の植民地支配政策と深く関連している一方、現地建築家たちの創意工夫も反映されていました。大連市役所などがその一例です。 これらの建築は、戦後、中国において文物保護の対象となっています。

1. 帝冠様式とファシズム 直接的関係の否定と新たな解釈

帝冠様式とファシズムとの関係については、これまで様々な議論がなされてきました。戦後の進歩派建築評論家の中には、帝冠様式をファシズム建築と断じる向きもありましたが、近年の研究では、その直接的な関連性を否定する見解が主流になりつつあります。 文書では、戦前昭和期の当局によるドイツ・ナチスのような造形指導は存在せず、帝冠様式の出現は、明治期からの古典様式から戦後の国際様式への移行期における、瓦屋根への日本的シンパシーが自然に現れた現象だとする説が紹介されています。 この説に賛同する建築史家もおり、戦後世代の建築史家たちは、軍部ファシズム建築論を必ずしも信用していないと記述されています。しかしながら、単に「瓦屋根への日本的シンパシー」という説明だけでは、帝冠様式が持つ複雑な側面を完全に説明しきれないとの指摘もあります。建築デザインには、常にクライアントの意向が反映されるため、公共建築である帝冠様式建築においては、当時の国家の社会的思潮が大きく影響しているという見方も重要です。つまり、佐野利器や伊東忠太といった建築界の重鎮が、明治43年の討論会で提起された課題への解答として、コンペという方法を通じて帝冠様式を選んだという解釈も成り立ちます。

2. 満州国における興亜様式との関連性

満州国においては、帝冠様式と類似の「興亜様式」と呼ばれる建築様式が見られました。 文書では、帝冠様式が満州に広がり興亜様式を形成したとする説と、両様式は別々に論じるべきとする説が紹介されています。しかし、本文の筆者は、両者を同工異曲のものとして捉えるべきだと結論づけています。 興亜様式は、清王朝の様式と西洋風、和風が混ざり合った折衷様式で、関東軍が様式を強制したわけではなく、満州国国都建設局の建築家たちが、短い時間の中で、北京や奉天の伝統的な屋根瓦などを研究し創案したものと推測されます。 大連市役所などが興亜様式の代表例として挙げられ、その設計者である松室重光や、関東都督府に所属した建築家たちの活躍が紹介されています。これらの満州国の官衙建築群は、今日では中国の文物保護単位として保全され、観光資源としても活用されています。 これらの満州における建築様式は、帝冠様式を理解する上で重要なコンテクストを提供するものです。

3. 建築とイデオロギー 客観的視点からの再考

文書では、建築自体にファシズムや共産主義といったイデオロギーは存在せず、それを用いる人間の思想が問題だと指摘されています。 建築は、クライアントが存在しなければ成立しないものであり、デザインのみをもってファシズムだの民主主義だのと批評するのは評論家の誇大妄想だと断じています。 この視点から、帝冠様式を単純にファシズム建築と断定することは、歴史的背景や建築家の意図を無視した一方的な解釈であると批判されています。 植民地や東アジアからの視点が欠落した従来の建築史観を批判し、帝冠様式や国際様式はどちらも政治体制に奉仕した側面を持つものの、建築そのものをイデオロギーの道具として単純に捉えるべきではないという立場が示されています。 つまり、帝冠様式を理解するためには、政治的・社会的な文脈を踏まえつつ、建築デザインそのものの特性や建築家たちの意図を客観的に分析することが重要であるという結論に至ります。

IV.帝冠様式研究の現状と今後の課題

近年、帝冠様式に関する研究は新たな視点から見直されつつあります。単なる「ファシズム建築」という単純なレッテル貼りではなく、当時の社会・政治状況、建築家たちの思想、そして東アジアにおける建築文化交流という多角的な視点からの考察が求められています。 帝冠様式は、単なる建築様式としてだけでなく、時代の反映を示す重要な歴史的遺産として捉え直されるべきです。今後の研究では、中国における関連建築や、建築家個々の思想・意図をより深く掘り下げることが重要となります。 帝冠様式を巡る議論は、日本の近代建築史、そして東アジアの建築文化史を理解する上で重要な鍵となります。

1. 帝冠様式研究の現状 新たな視点からの再評価

近年、帝冠様式に関する研究は、従来の「ファシズム建築」という単純な枠組みを超えて、多角的な視点からの再評価が進んでいます。戦後、進歩派建築評論家によって軍部ファシズムと結び付けて批判的に扱われてきた帝冠様式ですが、近年の研究では、その直接的な関連性を疑問視する声が高まっています。 井上章一氏などは、戦前昭和期に当局によるナチスのような造形指導は存在せず、瓦屋根への日本的シンパシーが自然に現れた現象だと主張し、その考えに西沢泰彦氏も共感しています。第三世代の若手建築史家は、従来の軍部ファシズム建築論を信用していないとされています。 しかし、単に「日本的シンパシー」で片付けるには、帝冠様式が持つ複雑な社会・政治的文脈を無視することになります。公共建築である以上、クライアントである国民の心情、すなわち当時の国家の社会的思潮を反映しているという視点も重要です。伊東忠太や佐野利器といった建築界の重鎮たちが、明治43年の討論会で提起された課題にコンペを通じて回答を選んだという見方も提示されています。

2. 満州国における興亜様式との比較検討

満州国で発展した興亜様式との関係も、帝冠様式研究の重要な課題です。帝冠様式と興亜様式は、それぞれ独立して論じるべきか、それとも同工異曲のものとして捉えるべきか、意見が分かれています。本文の筆者は、両者を同工異曲として捉えるべきという立場をとっています。興亜様式は、清王朝の様式と西洋風、和風が混ざり合った折衷様式であり、関東軍による強制的なものではなく、現地建築家たちの創意工夫も反映されています。 大連市役所などの事例を通して、興亜様式の特徴と帝冠様式との共通点、相違点が分析されています。近江栄氏の研究では、大連や瀋陽などの満州の建築群が調査対象となっていますが、長春などの官衙建築群へのアクセスが制限されていたことも指摘されています。これらの建築群は、現在では中国の文物保護単位として保全され、観光資源としても活用されています。今後、これらの建築群の更なる調査が、帝冠様式と興亜様式双方を理解する上で不可欠です。

3. 今後の研究課題 多角的視点と歴史的文脈の重視

今後の帝冠様式研究においては、単なる様式論にとどまらず、多角的な視点からのアプローチが求められます。 従来の研究では、植民地や東アジアからの視点が欠落していたと批判されており、より包括的な歴史的文脈を考慮する必要性が指摘されています。 クライアントの意向や、当時の社会・政治情勢、建築家個々の思想・意図などを考慮した上で、帝冠様式を客観的に評価していく必要があります。 また、中国における関連建築の調査や、建築家個々の思想・意図の解明、そして東アジアにおける建築文化交流という視点も重要になってくるでしょう。 帝冠様式は、単なる建築様式としてだけでなく、当時の日本社会の思想や国際関係を反映した重要な歴史的遺産として、多角的な視点から再評価していくことが今後の課題と言えるでしょう。