
総力戦体制と日本自動車産業
文書情報
著者 | 大場 四千男 |
専攻 | 経済学、歴史学、または日本史 |
文書タイプ | 論文 |
言語 | Japanese |
フォーマット | |
サイズ | 2.37 MB |
概要
I.岸信介と戦時経済体制の構築
本稿は、岸信介が重要産業統制法を立案し、ドイツの産業合理化政策を参考に、日本の重化学工業を中心とした総力戦体制構築に大きく貢献した点を解説する。トヨタ、日産といった自動車メーカーの設立にも深く関与し、自動車製造事業法の立案を通して日本の自動車産業を国防と産業の両面から支えた。これは、太平洋戦争への経済基盤整備に直結する重要な役割であった。
1. 岸信介と重要産業統制法
岸信介は商工省において、革新官僚として総力戦体制の構想と推進に中心的な役割を果たした。その出発点は重要産業統制法の立案である。この法律は、ドイツの産業合理化政策を参考に、日本独自の状況に合わせた再構想が行われた点が特徴的である。岸信介は、この法律を通して、国家経済主義を強く反映させた官民一体の戦時統制システムを構築した。この統制システムは、特に重化学工業の生産力向上に注力し、太平洋戦争に向けた経済基盤の構築に大きく貢献したとされる。重要な点は、岸信介が単なる政策立案者ではなく、その実現と推進においても主導的な役割を果たした点にある。この過程において、彼の革新的な官僚としての能力と、戦争に向けた強い意志が示されている。
2. 岸信介と自動車産業育成
岸信介は商工局長として、小金義照と共に自動車製造事業法を立案した。これは日本の自動車産業設立に繋がる重要な政策であり、後のトヨタと日産の勃興に大きく貢献した。この事業法の目的は、国防上の必要性と産業振興の両面から日本の自動車産業を確立することであった。 岸信介は、自動車産業を国家戦略に位置づけ、その育成に尽力した。これは、単なる民間企業の育成ではなく、国家の安全保障と経済発展という国家目標達成のための戦略的取り組みであった。 したがって、トヨタと日産の成功は、岸信介の政策的判断と実行力があってこそ実現したと考えることができる。この点は、彼の経済政策における先見性と戦略性を示す重要な事例と言える。
II.河本大作と満州事変 帝国主義と下剋上の心理
河本大作は満州事変の重要な人物として描かれる。張作霖爆殺事件は、田中義一内閣の対支強硬政策と蒋介石の革命外交の対立、第一次世界大戦後の世界情勢(世界不況、共産主義運動の台頭、排日運動など)が背景にあると分析されている。河本は、関東軍の行動を正当化し、満州支配の必要性を強調する一方、その行動が太平洋戦争への道を切り開いたこと、そしてその背後にある帝国意識と下剋上の心情を深く掘り下げている。
1. 張作霖爆殺事件と満州事変の背景
河本大作による張作霖爆殺事件は満州事変の引き金となった。この事件の背景には、田中義一内閣の対支強硬政策(東方会議)と、蒋介石の国民政府による革命外交との対立があった。第一次世界大戦後の世界情勢、すなわち平和主義の台頭、不平等条約撤廃運動、海軍軍縮会議、そして世界的な排日運動と共産主義の進展なども、この対立を激化させた要因の一つとして挙げられる。更に、大戦後の戦争特需の消滅による世界不況は、自由主義経済と金本位制を崩壊させ、保護貿易主義と管理通貨体制の導入という世界経済の大転換をもたらした。ロシア革命の影響は中国に深く及び、毛沢東の共産党結成や蒋介石の革命外交、そして排日運動の激化を促したとされている。 この複雑な国際情勢と国内の対立が、満州という地域を巡る緊張を高め、河本大作の行動に繋がる背景を形成したと言える。
2. 満州における排日感情の高まりと関東軍の対応
満州における排日感情は、記述されているように著しく高まっていた。著者は、満州の排日感情が中国本土北部よりもはるかに深刻であったことを指摘している。これは、日露戦争後の状況とは大きく異なっていた。具体的な事例として、邦人が満州人から暴行を受ける場面や、日本人女性が侮辱される様子などが記述されている。奉天(瀋陽)近郊の新民府では、昼間に日本人が正規軍人と思われる者から強盗に遭う事件も発生し、邦人商人の生活は極めて危険な状態にあった。こうした状況下で、関東軍に対する邦人の期待と、その期待に応えられない関東軍への不満が同時に存在していたことが読み取れる。この邦人に対する脅威と関東軍の対応、あるいは無対応が、後の満州事変への重要な伏線となっている。
3. 河本大作の決断と帝国の生命線
満州を「帝国の生命線」と認識した河本大作は、張作霖爆殺という決断を下した。これは、満州が中国に吸収される危機感と、張作霖とその配下である奉天軍の排日政策への対応策としてなされたと推測できる。 当時の世界情勢と中国国内の動向を踏まえ、幣原外交のような協調路線では満州の維持は不可能と判断した可能性が高い。 河本は、張作霖の死後、奉天派が瓦解することを期待し、張学良と楊宇霆の対立を利用しようとしたと推察できる。しかし、その後の状況は彼の期待通りにはならず、満州における対日関係は悪化の一途を辿った。このことは、河本自身の葛藤と、帝国主義的な思想に基づく彼の行動の限界を示している。
III.関東軍自動車部隊と満州事変における機動戦
満州事変において、関東軍は鉄道に加え、自動車部隊を戦略的に活用した機動戦を展開した。石川島自動車部(スミダ)、東京瓦斯電気工業株式会社(ちよだ)、日産(ダット)などの国産軍用自動車が徴用され、その活躍が詳述されている。特に、熱河作戦、河北境界方面作戦における自動車部隊の役割は大きく、山岳地帯や砂漠地帯での作戦遂行に不可欠であった。フォード、シボレーといった輸入車との性能比較も重要な論点であり、日本の自動車産業の発展にも影響を与えた。
1. 満州事変における自動車部隊の役割と装備
満州事変において、関東軍は従来の日清戦争や日露戦争とは異なり、鉄道に加えて自動車部隊を積極的に活用した。これは、満州の地形が山岳地帯や砂漠地帯を含み、鉄道網が不十分であったためである。軍用自動車法に基づき、東京石川島造船所(スミダ)、東京瓦斯電気工業株式会社(ちよだ)、快心社(日産・ダット)などから国産軍用自動車が徴用され、関東軍自動車部隊が編成された。 当初はスミダ製の30台を基幹として編成されたと記述されている。熱河作戦以降は、ちよだ製の装甲車なども導入され、部隊の戦力向上と多様化が進んだ。これらの自動車は兵員輸送や物資輸送に用いられ、鉄道網の補完という役割だけでなく、機動的な作戦展開を可能にした重要な戦力であった。これは、関東軍の作戦遂行能力を飛躍的に向上させたと言える。
2. 主要作戦における自動車部隊の活躍
文書では、いくつかの作戦における自動車部隊の具体的な活動が記述されている。例えば、方正攻撃では、兵員や軍需品の輸送に大きく貢献し、輜重兵としての役割を果たした。また、この作戦における自動車部隊の活動は、兵站面での重要な役割を示している。吉林省東境方面作戦では、密山や虎林の占領に貢献し、兵匪の掃討に重要な役割を果たした。さらに、熱河作戦では、広大な地域と厳しい自然環境下において、その機動力を活かし、作戦の成功に大きく寄与した。特に、国産車とフォードやシボレーなどの性能差が、作戦遂行に影響を与えたことが指摘されている。湿地帯や砂漠地帯での走行性能において、米国の車両が国産車よりも優位性を持っていたと記述されている。これは、今後の国産車の開発の方向性に影響を与える重要な経験となったと考えられる。
3. 国産車と輸入車の性能比較と今後の影響
満州事変における自動車部隊の運用経験は、日本の自動車政策に大きな影響を与えた。国産軍用自動車と、フォードやシボレーといった輸入車との性能差が明確になったためである。特に、悪路走破性能において、フォードとシボレーの優位性が際立った。これは、日本の自動車産業における今後の技術開発の方向性を決定づける重要な要素となった。その結果、昭和11年に制定された自動車製造事業法では、フォードやシボレークラスの車両を標準型として採用することが決定された。これは、満州事変での実戦経験に基づいた、現実的な判断の結果であったと推測できる。この経験は、後の国産車開発、特にいすゞや日野自動車の誕生にも繋がる重要な歴史的背景となっている。
IV.満州事変の帰結と太平洋戦争への道
満州事変は東三省(吉林省、黒龍江省、熱河省)の占領から始まり、河北省への進出へと繋がった。これらの軍事行動は、日中戦争、そして太平洋戦争へとつながる歴史的プロセスの一部であり、ハル・ノートによる満州からの撤退要求の拒否が、東条英機による太平洋戦争開戦の決断に繋がったと分析されている。対支二十一ヶ条要求の失敗と、中国の「夷狄をもって夷狄を征す」という伝統的戦略が、この歴史的連鎖を加速させた要因と言える。